思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「全体知=民知」と「部分知=専門知」の関係

2006-09-25 | 恋知(哲学)


「全体知=民知」と「部分知=専門知」の関係 


民知という全体知と専門知という部分知は、次元を異にする知なのですが、これをどう捉えたらよいか?は、なかなか難しいですので、ひとつ建築を例えに説明してみます。

家を建てるとき、そこには様々な専門家が必要です。
水道技術の専門家、電気技術の専門家、構造計算の専門家、デザインの専門家、図面の専門家、内装技術の専門家、・・・
でも、それらの専門家全てが集まっても、家は建ちません。
当たり前の話ですが、どのような家を建てるか?を決定しなければ、家づくりは始まらないからです。

どのような家を建てるか?それは、建築技術の専門家ではなく、そこに住まう人=わたしが決めます。
わたしの想い=構想がすべての始まりです。
美しく日々の生活が楽しくなる空間、使い勝手がよく快適な動線、ライフスタイルに適う間取りや建築素材、周囲=環境によくなじみ、空間イメージをアップする外観―形と色・・・・様々なことを想いつつ、どのような家にするか?を決定するのは、住まう人=わたしです。
イメージを膨らませ、変容させ、それを現実の諸条件を踏まえて具体化していきます。

その際、専門家の協力は欠かせません。アドバイスを受けることで、内容をより豊かなもの、確実なものにしていくわけですが、専門家は、「どのような家を建てるか?」を決定しません。専門家は、「精緻な部分知」を提供して、構想の現実化を助けることが仕事であり、わたしの代わりに生き、生活する!?人ではないからです。

全体知とは、建築の比ゆで言えば、「どのような家を建てるか?」を構想する能力のことですが、その能力を強めるには、専門知を獲得する仕方とは異なる方法が必要です。専門知を足しても全体知にはなりません。次元が違う能力だからです。建築の各専門家を全部集めても家が建たない=構想を決定できないのと同じです。

生活世界の具体的経験から立ち上げ・戻るーそのラセン的な反復の知を鍛えること。情報知やパターン知による判断ではなく、自分が感じ・想うところから考え・語ることの実践。
それが生活世界から立ち昇る「全体知」(立体的な主観性の知)を強めるための核心です。この全体知を鍛えることによってしか、人生や社会のありようについて考え、よい判断を下すことはできません。そのような全体的な判断は、全体知による以外にはないわけで、専門知は、それ自身としては自立した意味・価値を持ちません。生活世界から立ち昇る「全体知」の中でのみ「専門知」は、意味・価値をもつ、これは、知の原理です。

この生活世界から立ち昇る「全体知」が広義の「思想」を生みますが、価値意識の集合である思想とは、それ自体極めて立体的なもので、平面化する(比ゆ的に言えば、実物を写真にとる)ことで精緻な一般知を可能とする専門知とは、次元を異にします。三次元=立体の知が全体知であり、思想なのです。立体を立体としてそのまま見るのは、近現代の学校知=正解が決まっている平面知(客観学)の訓練だけを受けた頭脳にとっては、なかなか骨の折れる作業です。事実学―技術知という平面の知ではなく、意味論―本質論という立体の知を会得するのは、学校秀才には難題です。かえって学業成績が悪い人=学校知のありように違和を持つ人の方が、みなの実感に届く立体視=総合判断に秀でることが多いのは、背後にそういう事情があるのです。

私たち白樺同人がいう「民知」とは、この生活世界から立ち昇る「全体知」(立体的な主観性の知)のことで、それは、誰でもが普段の生活の中で物事を判断している「知」ですから、馴染みのある親しみの知です。ただ、これを放置せずに、全体知のレベルを上げることに意識的に取り組もう!というのが、民知の運動=実践というわけです。自他の専門知を現実に生かすための知=全体知を鍛えるのが目的です。全体知に秀でた人はいますが、全体知の専門家!?などは存在しません。範囲を限り、平面化することで一般性を得る「部分知としての専門知」は、生活世界から立ち昇る「民知」という「全体知」(立体的な主観性の知)の中ではじめて意味と価値をもつ、これは原理です。

2006.9.22 武田康弘



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