思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

山脇論文に対する荒井さんの反論文ー昨日9.9の討論会資料

2006-09-10 | その他

昨日の討論会ー9.9山脇・荒井討論(クリックしてください)
は、内容は厳しく、しかし、雰囲気は柔らかく、でとても面白く有意義でした
以下に山脇論文に対する荒井さんの疑問・反論を載せます。討論内容やその結果については、また後日。


山脇教授論文-クリック
最初の画面の左の項目ー「評論」をクリックして、 06年4月ー現代を如何に生きるか―公共哲学の視点から― 山脇直司(東京大学教授)</u>を選んでください。



「現代を如何に生きるか」について
 「哲学する普通の市民」
 荒井達夫(我孫子市在住、社会人)

○全般的な感想

・「滅私奉公批判」、「滅公奉私批判」等は、あまりにも当然の主張であり、「公共哲学」を持ち出さなくてもできる。「公共哲学」として主張する意味があるのだろうか。
・「民の公共」、「活私開公」、「活憲」、「WA」、「グローカル」等は、キャッチフレーズの域を出ない造語ではないか。現実問題により良く対処するための基準を導く「ヴィジョンや思考の枠組み」ではない。また、一般市民が本当に求めている哲学=日々の生活実践の原動力になる思想とは、到底言えないと思う。
・「公共哲学」という新しい看板を掲げ、当然の事柄について、「グローカルの時代。民の公共の観点から、活私開公を図り、活憲で世界的なWAを実現しよう」と主張しているだけのように思われる。問題への対処策を伴わない、キャッチフレーズの寄せ集めであり、「政策の提言」とは言えない。
・そもそも「公共哲学」とは何か、なぜ「公共哲学」という新たな学問領域を作る必要があるのか。それによって何が明らかになり、具体的にどのような新しい政策提言ができるのか、全然明らかでないのではないか。
・憲法解釈で誤解、条文の読み誤りがあり、「活憲」になっていないのではないか。

○個別の論点

?民の公共・民主主義(P4,5)
・「公共性の主要な担い手は人々であり、民である」、「公共哲学は、政府の活動や営利企業の活動の正当性が民の公共によってチェックされ、正当化され、批判されるという民主主義観を提示する」等々とある。しかし、現代市民社会では、これは当然の原理であり、「公共哲学」として述べるまでもないのではないか。重要なことは、個々具体のケースにおいて、公共性の意味と程度をどのように判断するのか、ということであるが、何の基準も示されていない。「民の公共の観点から判断する」では、何も言っていないのと同じである。さらに、現実には「公共性」の判断において人々(民)が主体となっていないケースが多いが、それをどうしたら改善できるのか、「公共哲学」は何も提言していないのではないか。(なお、NPO等の活動を根拠づけるために、「公共哲学」を持ち出す必要はない。)

?NHK(P4)
・論文に書いてある程度なら、「民の公共」などと言わなくても、昔から公共放送やNHKについて議論してきている。また、「NHKは公共放送であって、国営放送ではない」、「NHKは人々の受信料で成り立っている。だから政府に気兼ねするNHKなど、あってはならない」との指摘は、おかしい。公共放送かどうかは、放送の質の問題、国営放送かどうかは、経営主体の問題であり、また、受信料は税金類似の法律による負担金だからである。仮にNHKの運営財源が税金になったとしても、公共放送である限り、政府に気兼ねしてはならないと考えるべきである。「民主主義の担い手である放送事業者が、政府に気兼ねすることなどあってはならない。その意味での公共性は、民放もNHKも同じである」と説明すべきであろう(放送法1条、3条)。その前提で、NHK独自の公共性や、その在り方(放送の内容と範囲、経営形態、受信料負担等)について議論できることになるが、「公共哲学」を持ち出す必要はない。

【放送法】
(目的)
第1条 この法律は、左に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
 一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
 二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
 三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。
(放送番組編集の自由)
第3条 放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

?プロ野球(P5)
・「文化的な公共財として、ファンあってのプロ野球であって、オーナーのためではない。オーナーがプロ野球を私物化することは許されない」とあるが、なぜプロスポーツが「公共財」なのか。「公共財」であるならば、消費の非排除性のために、ただ乗りが生じ、市場取引が成り立たない。したがって、プロスポーツの民営はあり得ないことになるから、この説明は誤りではないか。「オーナーであっても、私物化するようなことをしたら、ファンが離れていってしまい、プロ野球が成り立たなくなるから、すべきでない」、と考える方が素直でわかりやすい。プロ野球の経営は、元々「公共性」とは無関係の問題と言うべきではないか。「公共哲学」で一体何が明らかになるのか。逆に問題の本質が見えにくくなるだけではないか。

?滅私奉公批判(P6)
・「公共哲学の最初の任務は、なによりもまず、そうした滅私奉公のイデオロギーやライフスタイルを批判することです」とある。しかし、滅私奉公が前近代的な悪習であることは当然であり、わざわざ「公共哲学」だの、「民の公共」だのと、言う必要はないのではないか。やりたくないけれど、未だに滅私奉公に近いケースがあるのが現実であり、それをどうしたらなくせるのかが問題である。「公共哲学」云々だけでは、具体的解決策は提示できないのではないか。

?活私開公(P7)
・「私という個人一人ひとりを活かしながら、人々(民)の公共性を開花させて、更には政府の公を開いていく」とある。これには誰も異論はないと思うが、「活私開公」の実現を妨げる思考が現代日本人に蔓延しており、その現状をどうしたら変えられるのかが問題である。それを示さなければ、「活私開公」は単なるキャッチフレーズである。「公共哲学」は具体的解決策を提示していないのではないか。また、「自分とは何だろうという自己理解と、他者を理解することと、人々が生きる価値的な場である公共世界とを、できるだけ関連づけて考える」とあるが、これを言うために、わざわざ「公共哲学」を持ち出す必要はないと思う。

?公共的感情(P8)
・「公憤やコンパションなどの公共的感情を基にして、人々を煽り立てることなく、公共世界を創出していくことこそ、今の不安定なグローバル化の時代に求められている」という。しかし、これは今に始まったことではなく、昔から、例えば国際連盟ができた頃から、そう言えるのではないか。問題とすべきは、なぜそれができなかったのか、できるようにするために満たされるべき哲学的な前提条件は何かであり、それらを明らかにすることが本物の哲学者の仕事ではないか。

?個人の権利と公共の福祉(P8,9)
・「個人の権利というのは、自分の権利だけではなく、一人ひとりが持つ権利を意味し、個人の尊厳とは、自分だけでなく、他人一人一人を大切にしなければならないということを意味します。自分の権利と同時に他人の権利を尊重するという考え方ですから、一人一人の権利がぶつかった場合、当然調停が必要なわけです。そこで公共の福祉に即して個人の権利を調停せざるをえないわけです」とある。しかし、「公共の福祉」が人権相互間の矛盾、衝突を調整する原理であるというのは、憲法の伝統的解釈であり(宮沢俊義、憲法?P235、有斐閣、昭和34年)、一体これとどこが違うのか。「公共の福祉という概念を再解釈する」というが、まったくそうなっていない。

?社会福祉と公共の福祉(P9,10)
・「25条の「社会福祉」と29条の「公共の福祉」がとどのように違うのかという問題が生じますが、私はこの二つは等価概念だと思っています」とあるが、これは甚だしい条文の読み誤りである。25条の「社会福祉」は、社会保障、公衆衛生と並んで、政府が国民の生存権確保のために行うべき社会政策の一つとして規定されたものであり、人権の調整原理である29条の「公共の福祉」とはまったく異質な内容であるからである。(25条の「社会福祉」の具体化は、生活保護法、社会福祉法、児童福祉法等)


【憲法】
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
第29条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。

?憲法前文と9条(P10,11)
・「憲法の前文と切り離して9条だけを言うのは、逆効果になるおそれがある」、「前文は全人類や国際社会へ向けての発信ですが、それを踏まえずに9条擁護だけを叫んでも、他国からは、一国平和主義の主張としか受け取られかねない」とある。しかし、同一の憲法に書かれている以上、前文と9条はセットで解釈すべきことは当然であり、憲法の制定過程を見てもそれは明らかである。したがって、前文と切り離しての9条解釈は、単なる条文の読み誤りと言うほかない。仮にそのような者がいるとしたら、特定の政治的意図に基づく邪道極まりない法解釈であり、それを批判するために「公共哲学」を持ち出す必要はない。

?WA・調和・平和・和解(P11,12)
・「WAという概念を、21世紀の国際社会に向けて更新し発信する」、「和は日本固有の特殊な価値ではなく、諸文明に通底する普遍的な価値」、「多様性の中の和」、「和して同ぜず」、「大切なのは、調和・平和・和解の意味を包含した「和」」等々とある。しかし、「和」の解釈をあれこれ行って、それを推奨するだけでは、「和」は実現しない。誰もが「和」を求めながら、それが実現しないのはなぜか。価値観が対立する根本原因を究明し、対立を克服する思想的前提条件を明らかにして、それを実現するための具体的方策を提示することが、本物の哲学者の仕事ではないか。

?自己-他者-公共世界(P13)
・「自分は日本人でもあるし、地球市民でもあるし、宮城県民でもあるという多層的な自己理解をしていくのが、グローカルな公共哲学からみた理想の生き方です」とある。しかし、そのような生き方の実現を妨げる思考が現代日本人に蔓延しており、それをどうしたら変えられるのかが問題である。「公共哲学」は具体的解決策を提示していないのではないか。(白樺教育館の大学生クラスの方がはるかに進んでいる)

?「ある」論と「べき」論と「できる」論(P13,14)
・あまりにも当然の事柄であり、なぜこれが哲学なのか、わからない。また、日々の生活で「理想か現実か」の二者択一をしている者など、いるのだろうか。


コメント
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