思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

人それぞれという受動性のニヒリズムと、国家主義という能動性のニヒリズム

2006-09-29 | 恋知(哲学)

私の教え子のまりかちゃん(高1)の「ひとそれぞれ」を受けて、書いてみました。
まずは、まりかちゃんの「ひとそれぞれ」です。


それにしもてなんだろー。

「人それぞれ」っていうのを聞いて私が思うのは
意見の対立があって「違うんじゃない」で、「まぁ人それぞれだよね」って逃げる人は
そもそも本当に自分の意見なんじゃないんじゃないかと・・・

そうやって逃げるっていうのはその意見を持っている
理由がまず希薄だからかなって気がする。うん。

周りにもいやっちゅーほどいるけど

自分に自信がないからマスコミとか、身近なところで周りがかたまって作り上げるような意見にしがみついて自分を支えてるかんじだから「それ違うんじゃない?」とか言っても
うっ・・・ってなって

「人それぞれー」とか逃げるしかないんじゃないかなぁーって
思う。

上手く言えないけど
意見自体が自分の中からでてきたものじゃなくて
ふわぁっと宙に浮いてるものにしがみついてるから
そもそも意見を言うってこと自体「逃げ」みたいな・・?

うまく言えないねぇ~笑 (まりか)

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人それぞれという受動性のニヒリズムと、国家主義という能動性のニヒリズム


人それぞれ、人生いろいろ(笑)、という言い方、
これは、人生から「悦び」を消去する恐ろしい「思想」だと思います。

人間の生のありようを、まったく逆転させた「言い方」です。

ほんとうによい生、ほんとうによい考えって、なんだろう?と一生懸命考え・模索して、いろいろ試し、確かめて、「うん、そうだな」と思える何かを見出していくーーそういう「考え、生きる」ことへの追求と努力―――
このほんとうとは何か?の追求は、必ず、その人の固有性・独自性をもった個性的な表現をとるーー結果として「人それぞれ」の世界が立ち現れるのです。

その主体的な追求・努力の前に、はじめに「人それぞれ」を置くのは、生きるに値する世界って何だろう?という追求=真に納得できる人生を歩もうとする思索と実践に水を差し、人それぞれだから、何でも同じ!?周りに合わせてまぁ~、という受動性のニヒリズムを生んでしまいます。よりよい考えを求める努力を踏みにじる言葉です。

わたしたちの多くが、生の深い「悦び」を持てず、情緒音痴で、パターン化した情感に支配されてしまうのは、「主観性の真実」を消去してしまうこの受動性のニヒリズムに起因するのでしょう。個性・個人性とは、ほんとうとは何か?求めて試行錯誤することでようやく生み出されるものですが、「人それぞれ」は、それとは180度異なる発想です。これが自由のもつダイナミズムとは無縁の「型の文化」を生み、個人性の否定=人間性の抑圧を正当化してしまいます。

受動性のニヒリズムに支配されている人々は、いとも簡単に、政治権力者が示す「国家の実体化→愛国心の高揚」という能動性のニヒリズムに反転します。「古きよき日本!?への回帰」という集団ヒステリーに陥り、その共同幻想・虚のロマンを追う根源的不幸へと落ちていきます。

受動性、能動性のどちらのニヒリズムも、自己存在の赤裸々な真実から目をそらし、自分から逃げる自己欺瞞の上に成り立つ外的な生ですが、この不毛・不幸を超えるには、自分の存在をしかと見据え、内的世界を豊饒化させる以外にはありません。恋知する営みを放棄して政治次元へと逃避する人生には根がないので、他者の生き血を吸って生きる人にしかなれません。
「人それぞれ」という言い方は、極めて政治的です。いやらしいー。

武田康弘




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