人間の生や社会のありようについての「考え・思想」においては、正解はありません。論理で決着のつく部分は、限定された枠組みの中での問題に過ぎません。なぜならば、どのような生がよいか?を論理で決めることは不可能だからです。
ひろく一般に人間の生がどうあったらよいのか?-どのような社会がよいのか?という問題は、ふつうの多くの人がどのような人間・人生がよいと感じているか?にかかってくるために、論理ではなく、よき生のイメージが問題の核となるのです。
人間の自然性の肯定、濃やかで豊か、自由で生き生き、しなやかで且つダイナミック・・・私は、私の好きなこととして、?明快で美しいこと?品位の高いこと?親しみがあり遊び心があることと書きましたが、このようなよき生へのイメージがおおもとにあり、そこから「考え・思想」は生み出されるのです。思想がつくられる源泉は「よき生のイメージ」です。
一番底にあるのは、このイメージの世界であり、そうである限り、それとは大きく異なるよき生のイメージを持つ人(例えば、忍従や自己犠牲に生の価値をみる)がつくる思想とはぶつかることになります。そこでの闘いは、論理の争いの形をとりますが、究極的には、イメージの優劣の競い合いであり、純粋な論理の問題ではないのです。
イメージは論理に先立つ、これは原理です。
(写真は9月3日、川村記念美術館・ムーアの彫刻の前でボール遊び)
武田康弘