思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

政治批判をすることは、国民の義務です。

2006-09-18 | 社会思想

わが日本という国では、現実政治のありようや権力政党=自民党の言動を批判すると、政治的な発言だ!と、あたかもよくないことのように言う人がいますが、これほど愚かな想念はありません。
少なくとも民主制の政治においては、「政治批判」は健康な社会を維持する生命線であり、批判力が弱まり、現状肯定=保守主義になれば、その国は極めて危険な状態に陥った、と断じられます。

権力は腐敗する、絶対的な権力は絶対的に腐敗する、とは、普遍的な真理です。
国民一人ひとりの不断の努力がなければ、いったん保障された個人の自由や権利もその社会の支配層・権力政党やそのグループの圧力や誘導―世論操作によって簡単に奪われてしまいます。国民一人ひとりの不断の努力が求められるゆえんです。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」(日本国憲法12条)

政治の仕組みについて学び、現実の政治のありようを検証し、問題だと思う点についいてはっきりと批判する行為は、国民の権利どころか、義務でさえあるのです。

ところが現代の日本は、まるで1931年の満鉄爆破から始まった15年戦争時のように、保守主義が台頭し、政治批判―権力批判は著しく弱まっています。
そういう風潮があると、冤罪が蔓延します。
昨日夜中の4チャンネル(日本テレビ)でも鹿児島県の片田舎で起こったウソの「選挙違反事件」による警察の恐ろしい取り調べの実態が詳細に報道されていましたが、検察と警察の人権無視の行為は、権力の非人間性―傲慢さを嫌というほど見せてくれました。
石原都政下で頻繁に起きている政治的発言への警察の露骨な弾圧も続いています。
テレビからも辛口の権力批判が消えています。
保守主義を宣揚するのは政治的ではなく、保守主義を批判するのは政治的!?もはや完全な「病気」ですが、自覚していない「病気」なので、最悪です。
「国民の不断の努力」がいかに大切かが痛感されます。

批判精神をもつこと、政治について発言すること、これは民主政治の命であり、国民の義務です。手厳しい批判がないところに前進はありません。危険だけがあるのです。

武田康弘

追記ーtaroさんという公務員の方のコメントと私のコメント返しも見てください。下の「コメントを見る」の項。




コメント (1)
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