保守主義=ナショナリズムを掲げる権力者に従う日本人では、日本人がすたります。
上位者にへつらうマスコミ人や批評家、政治権力者の意向に頭を垂れる教師や裁判官、上意下達の想念に縛られて政治批判のできない個人。これでは日本人がすたるというものです。
そのようなテイタラク人間の集合でしかない日本国だとは思いたくはありませんが、石原慎太郎のような愚かな強圧政治家や安倍晋三のようなあけすけに国家主義を宣揚する権力者が、自己のもつイデオロギーを政治権力を使って実現しようとする流れは、物凄いものあります。
われわれは、再び集団にヒステリーに陥り、愚かな日本人になるのか?
人間、ひとりの人間としてどのように生きるのか?という一番底にある「原・人間」のよさを育てるのではなく、日本、ニッポン、日本人、ニッポン人をことさらに強調し、どうだ、これでもか!というほどのバカデカイ「日の丸」を壇上に掲げる入学式・卒業式の強制。天皇賛歌として明治天皇に捧げられた「君が代」斉唱の強要―声の出し方までチェックする東京都教育委員会。安倍政権誕生後は、全国の学校がことさらにニッポンを強調する異様な精神状態に陥りそうです。1931年から始まる15年戦争時の知識人・文化人・マスコミ人の総崩れー「天皇ただ一人が日本人のよりどころ、天皇制こそが世界に誇れる日本の独自性」(西田幾多郎・林房雄・亀井勝一郎らほとんどのインテリが異口同音)が想起されます。
このヒステリー、感情主義から日本人が抜け出すのは、いつの日か?
一人ひとりが自分の頭で考える力を持ち、上位者にへつらう小心さを克服したとき、はじめて世界に誇れる日本人が誕生するのです。
日本人としての日本人ではなく、人間としての日本人でなくてはいません。普遍性のある人間としての生を歩む、その普遍性の表現が日本的なる様相を自然にまとう、日本人的なるものとは、目がけるものー目標ではなく、深く自己を掘り下げる生き方をした時に結果として現れるものなのです。ことさらに日本を強調する精神からは、よきものは何も生まれません。
安倍晋三の有力なブレーンである、八木秀次は、反「人権」宣言(ちくま新書)で、裸の個人につく「人権」は、間違った思想であり、「国民の常識」につくべきだ、伝統や共同体の道徳・倫理こそが基準だ、と激しい調子で「人権思想」という人類の英知(ソクラテスや釈迦やキリストに始まる人間の普遍性の探求)を総否定しています。
このような偏頗な思想を元に、自民党新総裁に選出された安倍晋三は、『美しい国へ』(文春文庫)を書いています。「天皇制こそが日本の根幹であり、特攻隊員たちは、その日本の悠久の歴史という大儀に殉ずることで、自らの命を永遠のものにしようとしたのだ。」と。
私は、激しい公憤を覚えます。天皇現人神・神国ニッポンという愛国教育によって、国家主義ー靖国思想を植えつけられた若者の魂は、これでは永遠に浮かばれません。彼らに犠牲を強いた為政者への批判をしない安倍晋三の言動は許しがたいものです。
武田康弘