思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

多くの政治家が「ネットウヨク」と同レベルの「形式論理」に陥っているようです。

2011-03-08 | 恋知(哲学)
前原外務大臣の献金問題を追求する野党政治家の発言を国会中継で見ていましたが、あまりに次元の低い追及にウンザリしました。

自らは知らなかった在日韓国人からの小額の個人献金について、「外国人から金を受けるとは何事か!」とスゴム野党議員は、ネットウヨクの愚かな「形式論理」による他者攻撃・排撃と瓜二つです。

全体を見通す=大局観がなく、些細な形式的な問題で攻撃する、とにかく攻撃することが目的。何ということか、政治論戦とは、揚げ足取りのことでしかない。事前に用意された「紋切型の結語」に導くだけの全く内容のない議論もどき。

「理性」(=弁証法的な総合的思考)はどこにいったのか、「受験知」しかなければ、論理とは単純な「形式論理」のことでしかなく、これでは、漫画家の小林よしのりに先導されるネットウヨクと同じ、と断じられても抗弁のしようがないでしょう。

政府関係者もですが、野党のみなさんは、総合的な「理性」を身につけてほしいものです。以下は、形式論理と弁証法的論理について簡潔に説明したものですので、参考にしてください。

<平面的な形式論理>から<立体的な弁証法的論理>へ至るには?

ニュートン的宇宙観は、空間は同じ大きさを保ち、時間は一様に流れるとする「静止した宇宙モデル」ですが、現代の宇宙観は、ビッグバンに始まる「動的宇宙モデル」です。

論理といえば、アリストテレスの「形式論理学」が有名ですが、これは、ニュートンの「静止した宇宙モデル」と同じで、AはAでありBではないというものですが、この論理は、一定の時間内で、一つの視点から見るという条件であれば、当然「正しい」のです。

しかし、視点を変えてみると、Aは必ずしもAとは言えず、また、時間を考慮にいれると、AはいつまでもAであるとは言えないことが分かります。
とりわけ、人間や社会の問題を考えるときは、一つの視点だけで見、判断することはできず、また、事象は時間の経過と共に変化していきますので、形式論理の枠内で考えると、言語上は明晰でも、非現実的な判断・結語となります。
また、量の大小は質の違いを生みますし、場の違いも対象の性質を変えますので、この点にも留意しないといけません。

(1)事象を、時間的変化を意識し、生成・発展するものとして見ること、
(2)いくつもの視点から見て、だんだんと認識内容を豊かにしていくこと。
(3)量質転化を自覚し、場の相違も考慮しなければならないこと。
思考・論理は、この三点を絶えず意識しなければ、現実において有用な内容をもちません。

ほんとうに論理的に考えるとは、現実・実際を「形式論理」の中に閉じ込めることではなく、文字言語が陥りがちな平面的明晰さを超えて、事象を立体視する営みです。日々の現実の中で、問題意識をもち現状打開的に生きないと、論理は必ず平面化して、形式論理に陥っていきます。

生々しいビビッドな現実感覚を持つことが、生きた立体的論理・弁証法的論理に至る条件です。優れた論理的思考の基盤は、生活世界における鋭敏な感覚・生き生きとした感性・柔軟な心・豊かなイメージにあります。自我防衛の鎧を着ていたのでは、論理は硬直化して、有害な「為にする理屈」になってしまいます。

武田康弘

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