思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

原発は、多くの下請労働者の命の犠牲の上に成立しています。

2011-03-24 | 社会批評

今回、被ばくで病院に運ばれた作業員は、東京電力の社員ではありません。下請の労働者です。原発は、放射能を浴びる危険な仕事抜きには成立しませんが、その危ない仕事につくのは、電力会社の社員ではありません。下請・孫請け・曾孫請けの労働者です。

もう何十年も前から、その悲惨な実態が報告されてきましたが、マスコミ人はみな知らん顔です。白血病で亡くなった人・各種の癌で亡くなった人は、みな労災も受けられず、闇に葬られてきました。このような悲惨で非人道的な労働に支えられてはじめて成立するのが原発なのです。その一端は、平井さんの報告にもあります。

今回の被爆者も、短靴で高い放射線濃度の水に浸かって作業をしていましたが、東京電力の社員は、そんな無謀なことはしませんし、させられません。十分な装備もなく、危険だらけの環境の中で、命と引き換えに仕事をするのは、下請けの労働者たちです。通産省などからの天下り官僚経営者たちは、何のリスクも負わず、楽な仕事だけして、唖然とするような高給を取っています。

こんな組織をそのままにしていいわけがありません。お天道様は見ています。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小我=人生の失敗

2011-03-24 | 恋知(哲学)

下のブログの続きです


大我としての自分=自己=意識とは、開かれた我=私のことです。
元来、人間の意識とは「志向性」を本質としますから(何かをめがける、何ものかについての意識)、閉じたもの・固定したもの=小我ではありません。

意識の本質とは「自由」である、とは、開かれているという意味です。

自分=自己とは、意識の別名ですから、人は生きている限り、絶えず自分を新しくしていきます。繰り返しますが、自分=意識とは、閉じた固定した世界ではありません。

意識が自己防衛の必要から一時的に閉じで固まっている状態を「小我」と呼びますが、この状態を続けるのは、自己欺瞞(自分で自分を騙す)でしかなく、「歪んだ意識」「不幸な意識」の別名です。したがって、小我としてしか生きられない人の生は、失敗した人生というほかないでしょう。

本来、自分=意識とは、固定させることの不可能な存在で、ゆえに「実存」と呼ばれます。実存とは「自由」の別名です。人間存在=実存は、「自由たるべく宿命づけられている」(サルトル)ために、人は、その言葉と行為に全的に「責任」を負っています。人間は、自由であるゆえに「責任」から逃れることができないのです。

自分につく、自分を中心に、というのは、一つの立場=思想ではなく、人間が人間として生きるためには、大我としての自分(=意識)を原理とするほかにないのです。石橋湛山の言う「我」「何をおいてもまず自己を考える」「明瞭にせられたる自己から出発する」「自己の立場についての徹底せる智見」(『哲学的日本を建設すべし』1912年・明治45年6月『東洋時論』社論・湛山28歳))というのは、そのような意味での我=大我のことだと言えます。

武田康弘
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする