思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

いま、最も学ぶべき石橋湛山(第55代総理大臣・哲学者)の思想と実践。

2011-03-10 | 恋知(哲学)

『白樺教育館』のソクラテスクラス(高校・大学部)では、第55代総理大臣・『石橋湛山評論集』(岩波文庫)の学習を始めています。また、4月からの鎌ケ谷市中央公民館での学習会(「とわの会」)でも同書の勉強会を始めます。

以下は、そのための基礎知識です。


1910年(明治43年)は、「大逆事件」が起こり、幸徳秋水らの社会主義者が無実の罪で死刑に処された年です。「官治主義」(天皇の官吏である東大法学部卒の官僚による支配)の産みの親である山県有朋の意思ですが、政治や思想にはほとんど縁のない志賀直哉も明治政府の所業に激怒し、これ以降、保守的な森鴎外でさえ現実問題を題材にした文学を断念。「歴史小説」しか書けなくなります。
また、この年、明治政府は韓国を併合し、韓国を天皇の直轄地としました。

既成の権威を否定し、個性の全面的な肯定を謳った同人誌『白樺』(柳、武者小路、志賀ら学習院の異端児による)が創刊されたのは、国家主義が猛威をふるい始めたこの年・1910年でした。

その翌年の1911年に石橋湛山は、東洋経済新報社に入社。『東洋時論』の編集者・執筆者になります。27歳の時です。
「自由民権」と叫ぶだけの時代ははるか後方に退き、「問題の社会化」という「積極的建設の時代」にわれわれは立っていると説き、口語による平易な文体と、明晰な文意による論説を次々と発表します。
明治天皇の死に際しては、『東洋経済新報』の「社説」に「乃木大将夫妻の自殺に伴って起こった現象の如き、吾輩は殆ど呆れ変えざるを得なかった。・・なぜ議論のある人には、あるだけの議論をさせないのか。」と【盲目的挙国一致】を批判する論説を載せました。入社2年目の時です。

それ以降、第二次世界大戦の敗戦(1945年)まで、一貫として「大日本主義」=「帝国主義」と軍備拡張に反対する論説を「社説」等に発表し続けたのです。
早稲田大学で、田中王堂を介してデューイのプラグマティズムを学んだ哲学徒である湛山は、個人主義・自由主義を血肉化し、一人の自立した人間として、労働者や農民にも、政治家や著名人にも、全く対等に向き合ったのですが、その徹底した「個=人間」の哲学・生き方・姿勢が、言論弾圧の時代にも政府批判を可能にした根拠です。誰に対してもおもねるところのない「自由主義」の信念の人には手出しができなかったのです。

大正デモクラシーを牽引した湛山の「社説」の標題は、それだけでも激辛です。「哲学的日本を建設すべし」「愚かなる神宮(明治神宮)建設の議」「民衆暴動の意義を知れ」「過激派政府(ロシア=ソ連)を承認せよ」「朝鮮暴動に対する理解」「騒乱(米騒動)の政治的意義」「大日本主義の幻想」「死もまた社会奉仕(山県有朋の死に対して)」・・・・

また、彼の言論活動には実践・行動が伴っていました。日本初のデモ(普通選挙要求)の副指揮者となり、「国民主権」思想の下に、官僚主義の根源的打破と、地方自治の重要性と、女性を男性と同じ社会人と遇して参政権を与えるべきを訴え、デモの先頭に立ったのです。


「一人の人間として生きる」ことを最大の価値とする哲学を貫き通した石橋湛山という優れた先達に学ぶことは、いまだに「特捜検察」(憲法違反の独裁的権力)による支配がつづき、民主主義の発展が阻害されている現状において、とても大きな意味があると思います。「思索の日記」の読者のみなさま、まだお読みでなければ、岩波ブックレットNo.510『石橋湛山と小国主義』(井出孫六著)と併せて勉強してみて下さい。


武田康弘

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