お金を沢山持つことによって、社会的な地位を得ることによって、あるいはブランド品を沢山持つことによって、学生であればテストで沢山点数をとることによって・・・それらを持つことで自分の存在を大きく価値のあるもののように見せる事。それが生きる上で最も大事な価値であり、生きる意味である。
ではなくて
”わたしの存在”そのものを深め、豊かにすること。
何がほんとうだろう、よいだろう、美しいだろう、と考え求めること。誰々が言ったから、本に書いてあるから、じゃなくて、わたしがどう思い、どう考えるのか。世間的な価値を基準に置いた人生ではなく、わたしが「よい」と思うことを、自身の納得をめがけて生きること。
そういう生き方を武田先生は恋知の生と呼んでいます。
いや、恋知ってなんだよ、と思うでしょうが、イコール哲学です。哲学というと小難しい理屈を並べて、わけの分からないことをだらだらと考える、みたいなイメージがあると思いますが、そういうのは、
本来の哲学ではございません。そもそも哲学というのは古代ギリシア発祥で・・・という説明は長くなるし僕の手には余るので言い出しっぺ(笑)の武田先生の文章をお読みください。
こちら
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori150.htm
息苦しくなるような、というか窒息しそうなほどの日本の現状で、この歳(27)になって定職にもつかず、金も社会的地位も学歴も資格(大卒で普通免許はある)も一切ない。その点で見る限り、非常にマズイ人生を送っている僕ですが、自分のやりたいことを存分にやって、人生はなんて素晴らしいんだと、完璧に楽しんでしまっているのは、外的な価値は自分にとっては何の意味もないし、全然価値じゃねー、との確信を持っているからです。
というわけで興味のある人「いいね!」を押してみてください。
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白樺教育館々長の武田康弘さんは長年の友人であり、私の自己了解に大きな示唆を与えてくれた方でもあります。
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武田さんはフィロソフィーを哲学哲学ではなく「恋知」としています。恋知とは、集団同調による「一般的正しさ」ではなく、宗教的信念による「絶対的正しさ」でもない、善美に憧れて深い納得をもたらす「普遍的正しさ」を求める営みです。
恋知の実践の場でもある【白樺教育館】の基本姿勢は「所有から存在へ」です。
「知識や履歴、財産(金品)の所有の数量を競うのでなく、人間の生きる意味は、存在そのものの魅力を拡げ、深めること」「所有を競うのではなく、存在そのものの魅力を開拓してゆく努力。唯一それのみが、人間が人間として生きるに値する生でしょう。」と武田さんは言います。
皆さんも生き活きとした生のヒントを共有しませんか?
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【 白樺教育館 のこと 】 泥 憲和
ソクラテスを愛し、思索の発信を続ける「白樺教育館」館長の武田康弘さんは、フィロソフィの訳語を「哲学」としないで「恋知」と訳す。
「恋知」とは聞き慣れないし、こなれない訳だと思われるかもしれない。...
だが「フィロソフィー」とは「知恵(ソフィアsophia)」を「愛する(フィレインphilein)」というギリシャ語が語源だから、直訳すれば「恋知」である。
「愛知」でもいいのだろうけど、これじゃまるで愛知県のようだと思って気付いたのだが、いい県名だよね、愛知県。兵庫県(兵器倉庫という意味)よりはよほどいい。これは閑話休題。
日本で恋といえば男女の色恋沙汰のイメージがどうしてもついてまわる。
だから「恋知」といわれてもちょっと色っぽくて哲学という学問に似つかわしくなくて、ピンと来ないイメージがある。
哲学という訳語は明治時代に西周(にしあまね)がつくったそうだ。
「希哲学」といった。
「哲(筋道が通り、賢いこと)」を「希(こいねがう)」学問というのだから、正しい訳語だったと思う。
しかし日本になじまなかった。
いつしか肝心の「希」がとれて「哲学」になってしまった。
明治時代にあってはいまだこの世にない解答をこいねがう学問ではなく、すでにある解答を学ぶだけの学問が求められていたせいだろうか。
「哲学」という訳語は「筋道が通って賢い」という意味だから、ことの半分しか表現していない。
筋道が通っているだけでは哲学ではない。
明治以来、日本は西欧の知識をキャッチアップすることに急で、考えるより学べ、慣れろというのが教育だった。
あらかじめ用意してある正解に、筋道立てていち早く到達する技術、それが学問だったと言えそうだ。
だが、この世の事柄の大半には正解がない。
西欧の学問も、西欧社会も、ある地点から先は答を用意できない。
学ぶだけだと、知的探求の営みはそこで止まる。
肝心なのはその先にある、知りたい、考えたいという知的な欲求であるはずだ。
わからないことをわかること、人類の誰も考え付いたことのない新しい認識、その高みに至る営為、それは苦しい作業に違いないが、その作業に耐える知的忍耐、忍耐を支える知的好奇心や探究心を育てることこそが、教育の目的だろう。
東京帝国大学は、現実から遊離した論理操作や形式的なつじつま合わせだけが上手な役人を大量に養成したけれど、西欧のお手本をなぞったり日常業務におけるこまごました問題を解くことには強くても、正解のない問題に直面すると、机上の空論に走りやすかった。
その人材養成システムは第二次世界大戦で破たんした。
にもかかわらず、いまだに似たようなことを繰り返しており、それが現今の日本の危機を招いている。
いま必要なのは、現実世界の困難を論理的に哲開していく知的冒険、すなわち哲学、恋知だ。
というのが、武田康弘さんの問題意識だと私は解釈した。
で、最高学府で学んだことのない自分が偉そうにいうのもなんなのだが、たしかにその面は大きいのではないかと思う。
西周がせっかく作ったけれど、「希哲」という成語はなじみにくい。
たとえば文法的には「育体(体を育てる)」が正しいはずなのに体を育てるという日本語の語順に引きずられて「体育」が定着してしまったように、「希哲」を「哲希」とでもしておけば「てっきがく」といって口にしやすく元の意味も保存されてよかったかもしれないのになあなどと、考えても仕方のないことをつい考えてしまった。
また横道にそれた。
ともかくである。
武田さんの「恋知」のFBページ「白樺教育館」が立ち上がった。
凝り固まって肩こりしそうな日本の哲学シーンをどのように軽やかに乗り越えて、フィロソフィ本来の自由闊達さ、現実変革の力強さを取り戻そうとなさるのか、楽しみなことである。
ということで、「いいね!」をよろしくお願いします。