マゼール追悼の30枚組CDボックスセット、残すはシベリウスの交響曲の半分他で、ほぼ聞き終えました。
チャイコフスキー4~6番と管弦各曲、 序曲1912年は、二通りの演奏で、一枚は合唱付き、艶やかで響きは見事にコントロールされ充実、実に美しい。クリーブランド響の合奏力は唖然とする上手さで、完璧。ただし、オーケストラトレーナーだったセルのような冷たさは皆無。
ホルストの惑星は、曲が高級になったように聞こえる、素晴らしい分解能の録音と相まって圧倒される。フランス国立響の見事なアンサンブルとパリッと粋な音色で、曲も都会的に。実に面白い。おまけのボレロも、ウィーンフィルとの演奏とは大きく違い、スッキリ透明で気持ちのよい演奏。
ラヴェルの管弦楽曲を集めたウィーンフィルとの演奏は、粘りがありユニークで面白く、楽しい。最後のボレロは、途中で大きくテンポを揺らし、意表をつく。大きく異なる二通りのボレロに、思わずニンマリ。全曲が名演。ラヴェルの精緻な楽譜を余裕シャクシャクっで楽しんでいるマゼールの姿が見える。 ドビュッシーはこれから。
すべてに言えるのは、音響は、まるでクリスタルガラスのような輝きと透明さで、逡巡とは無縁、隅々までマゼールの意思が貫かれ、余裕のある堂々とした音楽。エネルギッシュでパワフル。色艶のある魅力たっぷりな名演揃い。なので、シュトラウスの数枚が最高なのは聴く前から保証されたようなもの、期待を裏切らない愉しい演奏で、同時に楽譜が見えるように明晰、呆れるほどに。
現代に近くなるとマゼールの棒が冴え、通好みのようなストラヴィンスキーの二枚(三大バレエ以外)の楽しさは無類。いや~、マゼールってほんとに天才。
ところが、ここから信じられないことになります。
ベートーヴェンの交響曲全曲が、なんとも形容しがたいほどにダメなのです。縦割りでソッケナク曲が進み、情緒はすべて切り捨て、どの曲も最後まで聴くのはかなり疲れ、苛立つほど。 車に積んで聞いてもみましたが、事故を起こしそう(笑)。ベートーヴェンの大きさ・広がり・豊かさが消え、ただ強引なキツサばかりで、同じ人間の指揮とは信じがたい。
思うに、マゼールは、ベートーヴlェンのイデー(思想=楽想)に全く共感していないのでしょう。誰よりも強く、大きく、広がりゆく音楽をもたらしているベートーヴェン独自の「和声」を、マゼールの天才は拒否しているように思えます。
これほどの落差、他の艶やかで余裕のある名演と、苛立つような全く面白味のないベートーヴェンの交響曲。天才マゼールが、ベルリンフィルの常任になれなかったわけが、深くナットクできます。
うむ。 でも、か、だからか、愛すべきマゼールではあります。
追記
おそらく、マゼールにとって、ベートーヴェンの精神ないし思想を追体験しようという発想はないのでしょう。
手元に、80年にウィーンフィルと来日したときの名古屋での5番がありますが、テンポも表情もまるで異なります。クリーブランドとの演奏も時期はあまり変わらいので、不思議です。
どうとでも演奏できてしまうマゼールにとって、哲学的理念=精神性を要求してくるベートーヴェンの楽想は扱いにくいのでしょう。この全集は、一言でいうと、『バロック音楽化したベートーヴェン』です。 たぶん、実演では名演もあるでしょうが、それは、特定の状況が彼の通常の意識を超えてミューズの神に支配されたときのものと思います。
武田康弘