ともに白樺恋知の活動を進めるHさんの父君が亡くなりました。
Hさんの亡父は、1922年生まれですから、太平洋戦争が始まった41年には19歳、赤紙一枚で徴兵されて外国に戦争に行かされた世代です。
戦争の生々しい現場を知った人の精神は、「ふつう」ではないはずです。上官の命令に従うほかない運命で「私」の意思はありません。人間ではなく、「コマ」です。コマにされた人は、生き残り戦後を迎えて、人間と社会について、どう思い、どう考えたのでしょうか? トラウマのない人はいないでしょう。
また、Sさんの父君のように指揮官として臨んだ上層部の人々は、徴兵された下級の兵隊とは体験の質が異なるでしょうが、彼らは戦後、何を思ったのでしょうか。
餓死者の方が戦死者より多かった日本軍の無残な戦いは、当然のことに敗戦=無条件降伏という事態を招いたわけですが、そのあまりにも大きな代償なしには、「天皇現人神」という戦前思想による強権政治から解放されなかったわけですから、複雑な思いです。
政治家・官僚・昭和天皇の責任が一番なのは当然ですが、彼らの決定に従うほかなく教育された人々(個人の思想の自由は日本主義=国体思想により統制)のこころのありようを知るには、【想像力】を十分に働かせないとなりません。その想像力を欠けば、今のわたしたちの考え方・生き方をよいもの・優れたものにすることはできないはずです。
わたしの亡父は、1925年生まれでしたから、16歳の高校生のときに戦争が始まり、大学生のときに徴兵検査を受けさせられました。しかし、病気がちでしたので、北海道の農家の手伝いに回され、戦地には行きませんでした。殺し殺される戦争は体験していない、と生前に話していました。
昨年亡くなった母(献体したためにお骨がまだですが、来月1日に真宗式の葬儀と納骨)は、1928年生まれですから、13歳の中学1年生の時に戦争がはじまったわけです。一番多感な年齢です。東京神田でしたので、幾度も空襲にあい、神田須田町の家の近くにおちた焼夷弾による火災をヤカンのリレーで消した経験もあるとのこと。女学校ではタケヤリ訓練と労働奉仕の日々だった、と話していました。
しばしば起きた母の意味不明の興奮、過度の攻撃性や猜疑心は、少女時代から青春時代にかけての戦争体験のトラウマに起因しているのだと思います。
また、1923年生まれのかみさんの父君の関根竹治さんは、農家の本家に生まれた長男でしたが、頭は明晰で、いつも穏やかでした。(『白樺教育館』の建設資金を出してくれたのはこの竹治さんです。)
ところが、亡くなる数年前の8月に、わたしとかみさんでお盆のお墓参りに行ったとき、終戦記念日のTVを見ながら戦争責任の話をすると、ふだんはおとなしいお父さんが、「そうなんだ! 天皇が自害もせずにのうのうと生き延びたのは信じられない。わしら農家の者がどれほど苦労したか、みな戦争に取られて・・・・・わしら兵隊はみなが、天皇は自害するものと思っていた。」と語気を強めて話したので、親戚一同、唖然となりました。
これを聞いて分かったことがありました。
竹治さんは、明確に昭和天皇の戦争責任を認識し、天皇尊敬などしていませんでしたので、戦前思想に縛られることなく、何があっても静かに安定していられるのだろう。それに反してわたしの母は、戦後も「明治天皇は偉い人」という洗脳が解けず、そのために天皇とは尊敬すべき存在という観念に縛られていたので(女学校が徹底した皇国思想で戦後解散させられた)、軍国少女を曳いて異様な精神状態になるのだろう、と。
ともあれ、日本は、中国侵略からまる14年間の戦争を続けてきましたので(1941年からは対米戦争)、その代償をは極めて大きく、国内外に深い精神の爪あとを残しています。なぜ戦争を起こしたのか、戦争を可能とした【思想】=国体主義と、ひとびとの精神構造を解明しなければ、何事も永遠に未解決です。
「わたし」の、そして、これを読んでいる「あなた」の問題ではないでしょうか。けっして他人事ではないはずです。
武田康弘