思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

? 堕ちたNHK 「地上の星」はどこへ行った

2005-01-14 | 社会思想
今回の出来事に限らず、以前から自民党がマスコミに圧力をかけていたことは、多くの人が知る「公然の秘密」です。

細川連立内閣発足後、NHKのテレビが、柔らかく自由―桜色に変わりました。清流が運ぶ爽やかなそよ風を感じて、多くの人が日本社会に希望をもちました。アナウンサーの顔からも作り笑顔ではない自然な人間味が出ていました。

しかし、甘い汁を吸ってきた「自民党+官僚」はこの最大の危機に、なりふりかまわず55年体制の影の主役―社会党を担いで政権に復帰し、次に社会党を消去するや、マスコミへの圧力を執拗にかけ始めました。

NHK現会長―海老沢のような自己保身の塊は、独立自尊の精神=一人一人の裸の個人につくジャーナリストの使命を放棄して恥じることがありません。

権力主義政党=自民党の若手?のホープと言われる安部元幹事長などは、皆、国体思想の喧伝を本旨とする靖国神社を支持している国家主義の権力者です(ジャンルー社会思想?『靖国「神社」とはなんでしょう』を参照してください)。

靖国神社は、莫大な費用をかけて戦争博物館「遊就館」をつくりましたが、その思想的指導者・東大名誉教授の小堀圭一郎は、以下のように主張しています。

「あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。・・・靖国神社に天皇陛下や首相が堂々と参拝することが大切です。それだけでも青年層の国に対する態度がうんと違ってくる、道徳的に非常にプラスだと思うのです。中国の批判は、まともに相手にすべきではないんですね。適当にあしらうなり、知らぬ顔を決めこむなり、いくらでも対処の仕方がある。」!!??

「中国侵略の事実はないー中国を解放するために戦ったのだ」!?という思想宣伝の映画を一日中上映している「神社」のサポーター・安部元幹事長は、昨日テレビに出て、「公正な報道を!」と主張していました。言葉を失います。

ここに問題の本質が露呈しています。現代日本の最大の政治課題は、表立って話題になることはありませんが、実は、「国体思想」とどう向き合うか?なのです。私は、日本社会はいま岐路に立たされていると思います。ジャンルー社会思想?~?をぜひご覧下さい。 

話をもどします。

今のNHKの形態では、政府ではなく市民につく報道は不可能でしょう。いったいNHKとは何なのでしょうか?視聴料を取るのなら、少なくとも人事は視聴者による選挙が必要なはずです。そうしないなら「契約テレビ」にするしかありません。これは原理です。そもそも、厳しい政府批判ができないのなら、報道機関としての存在価値はありません。民主制社会を正常に機能させるには、政府―国家権力を自由に批判できるマスコミの存在が不可欠なのですから。旧・社会主義国と同じ「政府のマスコミ」では国が滅んでしまいます。旧・天皇制国家の失敗を繰り返すのは愚か者でしかありません。

体制に従うだけの人間が「よい人」なら、「よい人」は社会から活力を奪ってしまいます。現状変革に挑む愛と勇気と力をもった人間=「地上の星」を育てる努力を怠れば、「人間を幸福にしないシステム」からの脱却は永久に不可能です。

武田康弘 2005.1.14



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? 山脇さんへの返信ー「公共の哲学」をめぐって

2005-01-13 | メール・往復書簡
山脇直司様。

お便り、ありがとうございます。
もしお出で下さるならば、喜んでお迎えします。
「公共哲学とは何か」は、研究会や授業でテキストとしても使う予定です。


私は、実存の深みへの探求のためには、公共的な社会性の探求・獲得が必要だと考えています。「実存は公共性に先立つ」(笑)というわけです。

私が考える哲学とは、椅子という「事実」はない、真に実在するものとは椅子の「意味」であるーというソクラテスープラトンのイデア論のことです。

そういう意味では、イデア論を否定したアリストテレスは、学問ではあっても、哲学とは言い難いかな?と思っています。

プラトンの「国家」もルソーの「社会契約論」も共にイデアとしての都市国家論・社会論であり、経験的な事実学ではないので、そのような読み方が必要だと思います。

実存論と社会学(意味論としてではあれ)とでは、水面下と水面上の違いがあるようです。サルトルのレトリカルな書き方は、両者を融合するための要請だったのではないでしょうか。

名称は、単に「公共学」または、「公民学」の方がよいかな?と感じました。「存在論」(これは竹田青嗣さんが解釈し直した「現象学」を下敷きにする以外にはないでしょう)の探求を基盤として、そこから反転して「公共学」に上向するというのが正解ではないか、と考えています。ともあれ、この両者ー水面下と水面上をそのもまま結合することは出来ないと思います。必要なのは、違いの明晰な意識化、ではないでしょうか。


では、お会いできる日を楽しみに。(お名前失礼致しましたー訂正しました。) 協力関係がうまく築けたら、楽しく有益ですね。

武田康弘。(2005.1.13)



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? 著者ー山脇さんからのメール「公共哲学とは何か」

2005-01-13 | メール・往復書簡
私の書評「公共哲学とは何か」に対して、この本の著者、山脇直司さんよりメールを頂きました。
私の返信も次にアップしたいとおもいます。このようなやりとりを公開することは、個人=実存に立脚した真の公共性の思想を構築するために、大変有益な試みだと思います。



武田康弘様

初めてお便りする東大駒場キャンパス教員の山脇直司と申します。この度は、拙著をサイトで紹介して頂き、本当に有り難うございました。

武田さんが仰るとおり、まさに「個人の実存の深み」と「公共性の探究」をどう実践的に補完していくかが、今後の日本、いや世界中の人々の課題だろうと思います。

私も大学での活動の他、千葉大学の小林正弥さんが主催する公共哲学ネットワークにも積極的にコミットしており、武田さんや白樺教育館の方々と、いつか話し合う機会を持ちたく存じます。なお、サイトの山脇直史という名前を山脇直司に訂正して頂ければ幸いです。

では、いつかお会い出来る日を楽しみに。今日のところはお礼まで。(2005.1.13)

山脇直司


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思想と心情ー心情主義の怖さ (哲学?)

2005-01-10 | 恋知(哲学)
受験成績優秀ー紋切り型の「りこう」な人(本質的なことは何も分からない人)が社会の主要ポストについている日本という社会では、意味論が欠落してヒステリー的な心情主義が横行しがちです。以下の文書は、昨年4月に書いたものですが、新年-成人の日。にあたりブログ上にアップします。


思想 と 心情  

私たち日本人は、しばしば思想の問題をなし崩し的に回避し、心情の問題にずらせてしまいます。

そうとは自覚せずに、その人の言動の本質を規定しているのは、広い意味での思想(=価値観の集合)ですが、この思想のありようをよく見ることを回避し、心情の清さー純粋性を基準にして善悪や良否を決めてしまうのは、おそろしく危険なことです。

第二次世界大戦での天皇教の日本人の言動も、過激な赤軍派などのセクトの言動も、この心情によって自他を見、判断している点でまったく同じです。「涙した」とか「一心で純粋だ」とか「わが身を省みず命がけで」という心情のありようだけで善し悪しを判断することは、おぞましい結果を招来してしまいます。

個人であれ組織であれ、そのありようの善悪、良否は、その言動の背後にある思想(=価値観の集合)を深く知らなければ、判断できません。確かな構想力に裏打ちされた考えか否か、吟味された見通しのよい考えか否か、深い納得をもたらす優れた考えか否か、その考え=思想のもつ価値―その有用性の程度を、それとして見定める営みが必要です。

心情主義から脱却するためには、深く大きく思考する精神が不可欠です。生活の中で、なぜ?どうして?と考え・問う習慣を養い、掘り下げ吟味する力をつけ、心身のパワーと健康を生み出したいと思います。 

武田康弘 (2004.4.23)

2005.1.10



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2005年 迎春

2005-01-06 | その他
以下は、年賀状のコピーです。ブログの制約で図が消えてしまいますが、
ほんとうの賀状には、「不死鳥」の絵が入っています。

迎春2005年1月

昨年までの数年間は、文字通り創造の年でした。
「白樺文学館」の理念づくりから資料収集、建物
の基本設計からディテールの決定まで、創設に
関する全てをこなした後、引き続き「白樺教育館」
の建築に全力を投入しました。2004年2月1日、
皆様のご協力とご支援のおかげで、教育館は大
盛況で開館を祝うことができました。我孫子から
新たな「文化」=21世紀の進化した白樺派を創
造してゆく準備はすべて整いました。

2005年、いよいよ収穫の年です。「出会い」-
「アンガジュマン」-「呼びかけ」―行動の哲学
が火を噴きます
。04年11月22日に開設した
ブログー『思索の日記』は一ヶ月でアクセス数
が1000を超えました。能動的でオリジナルな
思想を発表し続けていきますので、ぜひ注視し
ていて下さい。「白樺教育館」のホームページ
から入れます。

では、今年も喜びと楽しみを共にしましょう。

武田康弘


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?書評 『新・サルトル講義』 澤田 直著(平凡社新書)

2005-01-05 | 書評
すばらしい新書が出ました。いや迂闊にも2年以上前に出ていたのですが、知らなかったのです。暮に、神保町の三省堂で見つけた平凡社新書141の『新サルトル講義』です。

 50年前に書かれた竹内芳郎31歳の処女作―『サルトル哲学序説』(ちくま叢書193)この魅力溢れる「青春の書」と本書では、叙述の方法も文体も内容も全く異なりますが、豊かな肉体をもった思想の面白さ、華や艶のある「能動的思考」がもたらすエロースを伝える点においては、共通しています。20世紀最大の思想家―サルトルという類まれな一人の男が放つオーラは、ポストモダニズムの「秀才」=青二才たちとはレベルが違います。新書版の小著でありながら、実に魅力的なのは、著者の力量もありますが、やはりサルトルという「人間の力」でしょう。

 サルトル死後に公開された膨大な著述の紹介も兼ねた本書は、思想、文学、哲学に多少とでも興味がある方にはもちろん、大学の哲学科の教師たちにとっても必読の書です。21世紀になってサルトルの時代が新たに始まろうとしている!ようやく時代が彼に追いついてきたと言えるかも知れません。あっ!そうです。今年・2005年はサルトル生誕100年です。何かが始まりそうな予感がします。

 狭く単純な論理でサルトルを断罪した気になっている貧しい心と頭の学者や批評家の言説は、害あって益なしです。現代社会は、灰色の人間が灰色の制度をつくり、「まじめ」な面白みのない人間が世界から深みのあるエロースを奪っています。政治の世界でも、心にふくらみ・余裕がなく、頭に論理力のない狭小で幼い男たち=小泉首相や石原都知事等が幅を利かせています。現代日本の政治を含む「文化」は、「学芸会」レベルでしかありません。成金が尊敬?を集め、受験オタクが頭がよい?と評される始末です。人間本来のよき「子ども」性を消去してしまった結果、残ったものは、愚劣な「大人」性=幼児性だけ。金もうけと外見だけの低次元の人間が生き恥をさらし、真善美=本物のエロースを追求する手強く「自由」な大人はいなくなってしまいました。 おっと失礼。脱線です。どうも「サルトル」という存在は饒舌なまでのパトスを与えるものらしいですね。

本書の一部をご紹介します。

『サルトルはまず、自由を否定性として捉える。だが、人間の自由は否定性に依拠してはいても、単なる否定ではなく、それ以上に意味付与、つまり真理の創造であり、投企である。と展開する。神もなく、予め与えられたいかなる真理もないと考えるサルトルは、価値あるいは意味は人間的現実が投企することによって生まれるものだと主張する。その限りにおいて自由という否定性は、同時に生産的であり、肯定的でなければならない。のみならず、倫理的なレベルにおいては、各人の自由は、他者の自由と相互に依存するがゆえに、自由は目指されるべき唯一絶対の価値とまで見なされることになる。このような奥行きを込めて「我々は自由の刑に処せられている」と宣言されるのだ。
 だが、このレトリカルない一文を、額面どおりに大真面目に捉えてしまうときに誤解が生じる。このフレーズは論理的帰結として引き出される命題ではないのに、命題であるかのように批判が行われるのだ。だがそれは、「雄弁な沈黙」を形容矛盾だと批判するようなものだ。サルトルは「自らに抗して思考する」とも言われるが、それは対義結合をたんなるレトリックを超えて、思考のあり方の根底にすえたその哲学的アプローチを意味するのだ。』(著者―澤田直)
 
 全体は、平易で読みにくさはありません。ぜひお買い求め下さい。760円(税別)です。 
2005・1・5 武田康弘


著者ー澤田直さんからのメール クリック(二つ目です)



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? 書評「現象学は思考の原理である」.付・竹田青嗣さんからのメール

2005-01-04 | 書評

以下は、「民知の図書館」に載せた竹田青嗣さんの『現象学とは思想の原理である』(ちくま新書)820円の書評ですが、「まとめ」の文書を追加して再発表します。


 これは、2004年初頭に出された「現象学宣言」とでもいうべき本です。大変密度の濃い、しかも精緻で明晰の極みとも言える叙述は、読む者に快感と興奮をもたらします。本書は竹田さんの長年にわたる執拗なまでの哲学=現象学追求の到達点であり、現象学の意味と価値を、その祖であるフッサールを超えて現代に甦らせた名著です。この新刊に象徴される「竹田現象学」は、現代に生きる人間に必要不可欠な前提―原理的思想であり、歴史的にも不朽の業績と言わざるを得ないでしょう。

 実は18年前、まったく未知であった竹田さんの処女作『意味とエロス』をその発売年―86年9月に神保町の書店で購入し、それ以降、「間違いなく竹田青嗣は、哲学・思想界に新次元を切り開く希望の星になる」と周囲の人々に話し、90年からは、彼との討論会や講演会・シンポジュウムなども催してきた私にとっては、この見事な「現象学宣言」は、とりわけうれしい書です。もったいない?ありがたい?ことに820円の「新書」ですので、ぜひお買い求めの上、精読をお勧めします。

 この本の主題は、「事実学」をやめ、「本質学」を開始せよ、ということです。
 いわゆる「正しい考え方」とは、専門知によって生活の知を圧倒するような知であって、常にうさんくさい。思考の本質=思考の原理とは、専門知による事実学ではなく、ふつうの多くの人々が生活の経験からつかんでいる「優れた考え方」に基づくものだ。考えるということの意味と理由を常に知っているこのような「すぐれた知」の原理を示すこと、それが本書のテーマです。

 その内容については、じっくり読んでいただくしかありませんが、読むにあたって一つだけ、注意すべき点について記しておきたいと思います。

 この書は、あくまで「考える」ことを始めるための前提=「思考の原理」についての考察です。これを読んで、「終わり」ではなく、ここから「始まる」書なのです。哲学の原理であり、具体的―現実的な問題への解答ではないということです。

 何を、どう考え、どう対処するか? 何が問題で、どのように解決していったらよいか? という、人が生きる上で一番大切な「能動的―現実的」な考えが示されているわけではありません。当然のことですが、それは各人がその生きる現場で、自分で考えることであり、著者が答える問題ではありません。

 そのことをよく自覚しないと、「そうか、よく分かった、右も左もイデオロギー的思考に縛られているのだな、すっきりした」で終わってしまいます。「観想」的な態度にはまって能動性が消去されてしまう危険があります。思想をその原理だけで「終わり」にしてしまうと、自分が生きている現場では何もやらず、本を解読することが一番のエロスだという「思想オタク」に陥ります。ご用心!

 ともあれ、現象学という認識論-前提を洗い、分析・解剖をする知と、具体的な建築―創造のための知とはベクトルの向きが逆なのだ、ということは、十分に知っておく必要があります。現象学的な視線変更による見方を示す事例―素材として「現実問題」を扱えば、それは「観想」にとどまります。真の課題は、よく見た上で、やってみよう・変えていこう・よくしていこうという言動-能動性への態度変更です。これはよく生きるための原理です。

 本書は、生きた能動的な知―建築する知のために必要な前提についての分明な記述なのです。くれぐれも、お間違えのないように。

2004年7月8日 武田康弘


竹田青嗣さんからのメール
以下は、この書評への竹田青嗣さんからのメールです。

武田さん
書評拝読。いつもながら感謝。
注意すべき点も、とても納得で、違和感ありません。
実践の部分は、まさしくさまざまな具体的プランが必要なので、
そこは原理の思考とはおのずと別の領域で、多様な競い合いで鍛えあっていくしかありま せん。
観想に終わったら何にもならない、というのはそのとおりと思います。
ますます暑くなりそうですが、いっそうご活躍ください。

とりいそぎ、お礼まで。 2004年7月11日


まとめ

最良の現象学解釈が「竹田哲学」です。この認識の原理論=現象学は、意識を透明にする方法であり、「行き詰った」時に役立つ思想です。ただし、破壊し、建築し、創造するエネルギーをもつ思想ではありません。「原理」をしっかりと血肉化することは、よく考え、よく生きるための必須の営みですが、真の課題はその次にあります。そこから反転して、能動的な「自分性」(個性的にして普遍的な、状況を状況たらしめる意識)をどうしたら創りだせるかです。「原理」に留まれば、色あせたエロースのない世界に転落してしまいます。自分―家族―組織に自閉する「出口なし」の意識を変えるためには、出会いーアンガジュマンー呼びかけの思想が必要です。
(武田康弘) 2005.1.4




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新コンセプトスクーターと21世紀 (趣味?)

2005-01-03 | 趣味
スクーターファンの私は、1997年よりヤマハの「マジェスティー」(250cc)に乗っています。>「二輪車は、スクーターの時代になる!」という私の予言?は、見事的中したようです(笑)


マジェスティ型の新コンセプトスクーターは、無重力の解放感とでも呼びたくなる不思議な乗車感覚をもちます。オートバイや従来のスクーターとは異なる第三の〈二輪車〉です。

その秘密は、上体を(腕)にも下肢(足)にも全く力のかからない乗車姿勢にあります。おしりをすっぽりと包み込むシートの形状と低い重心、足を前方に大きく伸ばす乗車姿勢が、無段階変速機と小口径タイヤというスクーターの特徴とひとつになって全く新しい乗車感覚を創り出しています。

適度に背筋を伸ばし、おしりのみで体を支えるこの方式は、体のどの部位にも力を入れることなく、姿勢の変動(体重の移動)のみで楽に心地よく曲がるのです。シャープでかつ柔らかく。ダイビングで体験するまるで無重力のような自由でしかも不安感のない運動性は、心身をリラックスさせ、ただ乗っているだけでストレスの解消になります。

常識的には、オートバイのようにタンクをひざで挟み込むことがないために不安定だと思えたり、深く腰掛けるゆったりとした乗車姿勢が鋭敏な操作を阻害するのでは、と思えますが、マジェスティー型の新コンセプトスクーターは、そういった従来の常識が全くの思い込みに過ぎないことを分からせてくれます。

〈柔らかくかつ自由で軽やかな動き〉と〈安定感〉がひとつになるというこの発見は、二輪車の世界のみならずあらゆる分野で21世紀を拓く鍵になるのではないでしょうか。
 (武田康弘)


(この文書は、1999年11月9日に書いたものです。私の教え子の佐野新世(さのしんよ)くんは、世田谷で『モト・アヴァンティ』というバイクショップを経営していますが、この私の文書は、彼が「霊長類研究会」という名のホームページに掲載していたものです。)



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ソクラテスープラトンのイデアとは? (哲学?)

2005-01-01 | 恋知(哲学)

人間にとって、真に実在するものは、意味と価値の世界である。
単なる事実というものはない。

人間にとって、単なる物質―例えば「椅子(いす)という物質」が実在するわけではない。真に実在するものとは、「椅子の意味」である。 この原理を徹底させることが、イデア論の意味であり、目的です。イデアとは、哲学の核心なのです。

したがって、イデア論を否定し、否定したことで生じた論理的破綻(はたん)を「目的因」(雨が降るのは、植物が育つのに必要だからだ!)の導入で糊塗(こと)したアリストテレスの学問は、神学に通ずるものであり、「学問体系」ではあっても哲学ではありません。

不幸なことに、キリスト教をバックボーンとするその後のヨーロッパ哲学の主流は、神学を隠し持つ哲学=哲学・学へと変質したのです。

神学的哲学=悪しき形而上学(けいじじょうがく)=学問主義的哲学から<哲学>を取り戻すためには、イデア論の了解が不可欠です。

哲学とは、「意味論」のことであり、意味のない「事実」は存在しないことの明晰な自覚なのです。



(これは2002年9月11日に書いたものですが、新年にあたり「哲学の核心」を、ブログ上に発表します。) 2005年1月1日 武田 康弘





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