思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ソクラテスが死刑になった訳―「九分九厘まで最も多く欠けている」

2005-07-08 | 恋知(哲学)

ソクラテスが訴えられた原因は?以下の「発見」にあります。
(『ソクラテスの弁明』(田中美知太郎・訳)より抜粋)


「アテナイ人諸君、誓って言いますが、私としては、こういう経験をしたのです。つまり、名前の一番よく聞こえている人の方が、神命によって調べてみると、思慮の点では九分九厘までかえって最もおおく欠けていると私には思えたのです。これに反して、つまらない身分の人の方が、その点むしろ立派に思えたのです。

 若い者が、自分たちの方から私についてきて、しばしば私の真似をして、調べることをしたのです。その結果、世間には、何か知っているつもりでも、その実わずかしか知らないか、何も知らないという者が、むやみにたくさんいることを発見したのです。

 すると、そのことから、彼らによって調べられた人たちは、自分自身に腹を立てないで、私に向かって腹を立て、ソクラテスは実にけしからんやつだ、若い者に悪い影響を与えている、というようになったのです。・・そこで彼らは負けん気だけは強いですから、組織的かつ積極的に、私について語り、猛烈な中傷をおこなって、諸君の耳をふさいでしまったのです。」


制度としての知ーさまざまな「事実」を累積するだけで、おおもとから思考することのない日本の「知」のありようを連想させますね。

ただの実務でしかない知、マニュアル化された知、これらはエロースのない知の形骸ですが、こういう自分の頭で考えることの少ないオートメーションのような知によっては、人間や社会の問題を捉えることはできません。まさに「ほんとうのことは何も知らない」人たちが社会の中心に座っているようでは、何事も進みません。右往左往するだけです。
ただし、あまり正鵠を射ると「訴えられる」かもしれません(笑)

私の提唱する「民知」とは、知の捉え方ー知へのかかわり方を変えることで、「学知」を含む「生活世界」(フッサール)全体を変革していこうというものです。詳しくはまた次に。 「民知の理念」-クリックしてください。

「民知の理念」に「熱い共感と深い感動をもって」白樺教育館を来訪された金泰昌氏(シリーズ「公共哲学」(東大出版会)の編者)のことは、6月17日のブログに載せました。クリック

追加:7月14日ー「民知宣言」(キム・テチャン氏からの依頼原稿)を「白樺教育館」ホームにアップしました。クリックして下さい。


7.8 武田康弘







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シリーズ哲学の核心 〈ロマンー理念を育むこと〉と〈ロマン主義―理念主義〉

2005-07-06 | 恋知(哲学)

Aさんへの手紙

人間はふつう誰でも、ロマンや理念を持ち、さまざまなストーリーを思い描きます。その意味では、人はみな詩人であり、物語作家であるわけです。ロマンや理念は、人間の生を意味づけ、支え、魅力的なものにする役割を持ちます。
逆に、人間のよさー美しさー魅力とは、その人の抱くロマン・理念の豊かさとクオリティの高さのことだとも言えるでしょう。

しかし、言うまでもないことですが、物語や詩は、実人生―現実ではありません。物語と実人生では次元が異なります。言語論的には、言語をその用法・機能のさせ方の違いから、日常言語(第一次言語)と文学および理論言語(第二次言語)に階層分けすること、と言えます。両者は同じ言語でも、次元が異なります。

普通は自明のはずの両者の区別は、知らずうちに混同されることがあります。そうなると〈ロマン主義―理念主義〉に陥ります。さらに、その異常さ・コッケイさにいつまでも気づかずに、演劇と実人生を完全に逆転させてしまうのが、オカルトや新・宗教の信者だといえます。

ロマンや理念を持ち、それを自分の「生活世界」を豊かにするように上手に育むことは、人間としての「意味ある生」をつくる基本条件です。
しかし、ロマンや理念を実人生と混同すれば、無用な混乱やおぞましい結果を招いてしまいます。例えて言えば、ロマン・理念主義者とは、悪役の俳優に怒って舞台に上がってしまう観客のようなものです。

人間が第二次言語(文学言語や理論言語)の世界をつくるのは、そこに閉じこもるためではなく、実人生―現実、「生活世界」の全体に豊かさ、多様性をつくり出すためであり、また問題を発見し、その解決の方途を探るためですが、ロマンや理念を抱く意味もこれと全く同じことです。くれぐれも「主義」に転落しないように注意したいと思います。

(1998年9月21日―Aさんへの手紙-2005年7月6日・改定)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うむ~「周り」は自己抑圧人!自分と世間ー(白樺ML公開)

2005-07-05 | メール・往復書簡

白樺MLのメールやりとりです。


武田様

最近体験したこと。
あるところの機関紙の編集委員会で、8月は平和に関することを特集記事に
したいという意見が出た時、一方で、「それはまずい。この機関紙でそれを
取り上げるのは恐い」という意見が出ました。
発言した人は、思想的に色をつけずに平和を取り上げることの難しさを思い、
出来るだけ無難に済ませたいという気持ちが働いたのでしょう。
そのやりとりを聞きながら、いつのまにか平和について真正面から大声では語れ
なくなった最近のこの国の異常さを感じました。

“ヒステリー的な「思い」だけの運動、「立場」や「主義」を固く守りるだけの愚行”
イデオロギー色をプンプンさせた平和運動のあり方にも問題があったのでしょうね。
うっかり「平和」を特集記事にすると、そういうものと同一視されるという懸念は
確かにありますよね。

一方で我々一般の市民の側の問題ですが‥
殆どの人は平和を何よりも大切なものだと思っているでしょうし、誰かに平和に
ついて大声で語ってはいけないなんて言われたわけじゃない。
それなのに、どこかで目に見えない何かをおそれ、セーブしてしまうということの根は
17年前の「自粛」の連鎖の時の考え方とも繫がりますか?
こういう考え方って儒教思想と関係がありますか?
どの民族にも共通して起こり得ることですか?

自分自身の変革の努力と周りへの働きかけと‥私に出来ることはとても小さい
ですが、「精進」します。これからもどうぞよろしく!
楊原

==================================================================

やなぎはら様。

「17年前の「自粛」の連鎖の時の考え方とも繫がりますか?
こういう考え方って儒教思想と関係がありますか?
どの民族にも共通して起こり得ることですか?」

繋がるし、関係あるし、起こり得る、とも言えますが、
体制的なもの、世間体への過度の恐怖心(本人は適度のと思っている?)は、個人のていたらく、「やわで弱っちい」臆病者のわが日本人の特徴ですね。
人前で自分の考えを話すこともできず、自分のフィールドだけでしか生きられない大人ばかりが目立つ国など「お笑い」で「お終い」ですよね。
これは確かに「教育」のせいです(「人間力」をつくらない「情報知」と「制度知」のみの愚かな教育が「輪郭線だけの世間体人間」をつくる)。
だから、問題の核心は自己変革にあるのです。
社会を批判する前に、己を知り、しっかりと自由に生きることのできる自分を育てることが何よりも必要です。
私が○○さんなどを鍛え続けたのもそういう思いからです。
私の見るところ誰ひとり及第者はいません。念のため言いますが、武田が完璧などと言っているのではありません。相互学習が「哲学の会」であり「白樺フィロソフィー」なのですから。互いに精神のおおもとを鍛えるほんとうの強さ=優しさを育て合いたいと思います。

ご意見ありがとうございました。

====================================

武田様

お返事頂き、ありがとうございます。

体制的なもの、世間体への過度の恐怖心(本人は適度のと思っている?)は、
個人のていたらく、「やわで弱っちい」臆病者のわが日本人の特徴ですね。
お上には楯突かず、長いものに巻かれて生きるのを得意とする日本人には
これが染み付いていて、必要以上に謙遜し、問題に真正面から向き合おうとせず
自己満足への楽な道へと逃げ出してしまうんですよね。
この特徴、自分にもどこかに染み付いているのを感じます。
これでは本当のエロースは得られないと分かってはいても、抜け出すのは意外と
難しい。この意識下の「日本人」が時々無意識に顔を出すから厄介です。
自分自身の心の葛藤を乗り越えたとしても、次に周りとの軋轢が生じますから
結構しんどいことですが、変わらねば!

客観世界の側の矛盾を立て直すためには、一人ひとりが心のうちの魂のあり方から
変えていく必要があるということがよく分かりました。
ありがとうございました。
楊原

====================================

「客観世界の側の矛盾を立て直すためには、一人ひとりが心のうちの魂のあり方から変えてい必要がある」(楊原)

一番難しく、一番面白く、一番有意義な課題です。共に!

武田

困った問題ですが、これでは「まずい」と思った人間が、少し勇気を出して、人に多少いやなことを言われても知らないふりをして、すこしづづ個人の自立のエロースを広げていきましょう! 「政治的意見」の同一性を重んじるのではなく、「自分の頭で考えて行動する」人を重んじたいと思います。(武田)

2005.7.5








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

完・「東大病」ー『ソクラテスの弁明』ー死刑を宣告された「発見」

2005-07-03 | 教育
「東大病」の4回目、一応の完です。

子どもの時から始まる「知のパターンを身体化する訓練」の勝者が受験偏差値上位の「難関校」に進むというのが、わが国(アジアのいくつかの国にも共通しますが)の教育です。

「なぜ?」「どうして?」と意味を追求し、自分の頭を悩ませ・考えるほんとうの勉強をしていたら「東大」へは入れません(もちろん例外者もいますが)。もっと効率よくお上手に勉強し、「正解」を疑わず、スマートにパターンを身につけ、概念中心主義に徹し、けっして実存としては生きず、既成価値・路線に従い、小学生から紋切り型(思考力もトンチ力?も定式化する訓練)の頭をつくる進学教室に通い続けなければ難関校へは入れないのです。

ここから哲学的頭脳や創造的頭脳が生まれたら「奇跡」です。ただの「物知り」の人間や、公式化された「理論」をつくる人間ならいくらでも輩出できるでしょうが。「事実学」を勤勉に積み上げればいいだけですから。誰かが創造した思想に乗っかってそれを上手に使う人間、既存の理論を緻密化するだけの頭脳を本来「優秀」とは呼びません。暗記力に優れたパッチワークの名手というだけの話です。

私は若くして独自の「私塾」を開き、多くの劣等性や優等生に心と頭と体―五感の全てをもって深く関わってきた体験から断言します。日本の「知」の捉え方は貧しく狭く、致命的な偏りがあることを。

私自身、24才の時から一切の遁辞が許されない状況の中で、生身の子どもたちに日々教わりつつ、自分のもつ「概念主義的歪み」を矯正する作業に明け暮れてきました。思想を身体化するという営みは、「学」を積み上げてきた人間にとっては至難の業です。だから私には、他者を啓蒙するという考えがありません。対話をしながらいつでも一緒に考えるのみです。

「ソクラテスの弁明」の次の箇所は、紛う方なき真実だと思います。

「わたしは、世に高名な人と問答をしてきたが、彼らは知恵があると自分では思っているが、調べてみると思慮の点では九分九厘まで最も多く欠けている。これに反してつまらない身分の人の方が、その点、むしろ立派に思えたのです。」

私のいう「東大病」とは東大生関係者のことを言っているのではなく、このことが分からない人、「学知」が偉いと妄想する「エリート」意識の持ち主をさしているのです。

2005.7.2 武田康弘




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ、日本人!「幸福をつくらない日本というシステム」

2005-07-01 | 私の信条

一人の個人としてのエロースを求めることができず、そこから逃げて何かしらの「集団」や「仲間」の中に埋没する。そこでの役割―仕事に忙殺されることを選ぶ。「いやだ」と言いつつ「忙しく」している以外に、生きる術を持たない。忙しい、大変だ、という生き方が「唯一」の生き方になっている。

時間ができてもそれを実存のエロース・悦びの創造には使わず、再び既成価値の下でバタバタとして「自分から逃げる」パターンに戻してしまう。「そうするしかないのだ」と自他に言い聞かせつつ。

内的に愉しむ・悦ぶ=個人の深い意味充実のエロースを知らず、いつも世間がつくった外の価値に合わせて生きようとアクセクする。自分―個人は存在せず、世間の価値だけが存在する。右も左も依然として精神の深層は「天皇陛下・万歳!」?の全体主義から抜けられない。おおもとから考える心と頭を育むことをせず、結局は、情報知と制度知の紋切り型に支配されることを選んでしまう。

自己意識(「自我」ではなく「意識の働き」それ自体のこと)が弱いのでたえず「世間」の価値で生きるしかない。自分自身から発するエロースがないので「寄生虫」にしかなれない。「いろいろ考えた」といっても最後は「形式、世間体、外面」に縛られて何もできず、空しく消えていく人生。これでは一生、悦び・エロースはやってこない。底なしの不幸。でもそれを選んでいるのは、私たち自身。

わが日本人よ、「一歩」を踏み出そうではないか! ビクビク小さくなっていても何の「得」も「徳」もえられはしない。たいした「実害」もないのに虚像に怯えているのはただのバカだ。わが同胞に最も必要なのは少しばかりの「勇気」である、とつくづく私は思う。自分自身に素直になれば、内外の「革命」はやってくるのに。


2005.7.1 武田康弘


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする