思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

from「団結ー愛国心」 to「批判精神と人間愛」(ミクシィー)

2005-11-12 | メール・往復書簡
昨日の続きです。
ヌルハチさんからの質問と、私の答えです。(ミクシィーというブログ内で)


タケセン先生、すぐにコメントを下さってありがとうございます。「やられる前にやる」は国際法上禁止されていたんですか、知りませんでした。(だからアメリカは「やらせてからやる」を良く使うのですね。)

 ?-a国民の団結の目的の一つ目は、それを強めることで、(中国、ロシア、韓国との)領土問題、在日米軍問題、朝鮮民主主義人民共和国による拉致問題といった外交問題において、然るべき権利を主張する声を強くするためです。郷土への愛は国境がどうなろうと持続できるかも知れませんから領土問題は相手国の好きにさせてもいい(そこの住民が傷つけられない限り)としても、在日米軍にしばしば生存の危機をもたらされた人々、朝鮮民主主義人民共和国に家族を拉致された人々、あるいはされた当人といった被害者だけの声では弱いために今もこの問題が解決していないのではないのでしょうか?一人一人の生身の人間を愛し、優しい心を持つ人々の権利を守るための団結はいけないと思われますか?
 ?-b二つ目に政治無関心を解決するためです。政治が良くないならば、良くしてもらうために自分たちで何かをするべきなのです、そのために政治への関心が必要です。今の日本ではそれは愛国心に比例して希薄です。

 ?崇拝対象についてですが、フランスの2月革命(でしたっけ?)では「民衆を導く自由の女神」という自由主義の神様をドラクロワは描き、ブルジョワとプロレタリアの人々の精神を高揚させました。これによりウィーン体制という、共和政治を潰し君主政治を取り戻すための反動体制に大打撃を与えることができました。(倒したんでしたっけ?よく覚えていなくてすいません)正しいことのために人々を導くために崇拝対象を作るのであれば、その崇拝対象に実体がなくても良いというのが僕の主張です。
 確かに国体には実体はありません、「国を愛する」と称して「政府を愛する」、「政府のために自身を犠牲にする」ということはいけません。しかしながら、「国を愛する」と称してもそれが「国民や郷土を愛する」、「彼らやそれらを守るために何かをする(自身を犠牲にしなくても構わない)」ということならば、どうでしょうか?

ヌルハチ
===============================

2005年11月12日
00:08
タケセン

?国民的団結で対抗する?という発想については、すでに歴史的に審判が下っています。そういう古典的な考えで物事・事態が解決する時代ではありません。問題解決のためには、まったく逆の発想が求められるのです。
政治的無関心は、日本政府・文部省の方針が生み出したものです。批判精神とその能力を育てない(逆に押さえ込む)教育は、体制に流されるだけの無能な人間を輩出しています。
私の「問題提起としての書評」の後半をお読み下さい。

?元来は、人間ではなく衣服=下着などを偏愛することを指す言葉であるフェティシズムの問題(目の前にいる生身の人間ではなく、国家を愛する)と、人間の生を支える「理念ーロマン」の問題とは次元の異なる話です。「ロマンとロマン主義」を見て下さい。
「国民」ではない人は愛さないのですか?「人間愛」の方が基底的だと思いますが。私は、人間や郷土を愛するのはとてもよいことだと思います(だからこそいろいろな改革・改善運動に取り組み、成果を上げてきました)。しかし、他人に強要はできません。愛するように仕向ける!?まして強要するとは、おぞましい行為でしかありませんから。
最後に、自分を愛し、大事にすることができる人間だけが真に他者をも愛することができる、私はそう確信しています。

では、また。

武田康弘

追記:二人のファザコン男=小泉、ブッシュは、本質的に小心で次元の低い思想しか持たないがゆえに、国家や軍事に頼りますが、こういう人間たちに政治を任せるようでは、両国の国民には救いがありませんね。
小泉、安部、石原タイプの人間が大きな顔をする日本社会をチェンジしましょう!!





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集団的自衛権の否定と、愛国心と、についてーーブログ上での対話公開

2005-11-11 | メール・往復書簡

以下はミクシィというブログ内でのやりとです。
私の集団的自衛権の否定のブログ記事に対する質問と私の返信です。
有意義な対話に発展しそうです。つづきも載せますので、お楽しみに!


初めまして、ヌルハチ(明治大学学生)と申します。ふざけた名前ですか、常識や世間の流れに正しい疑問を持って生きたいと思っている者です。いくつかの質問を行うことをお許し下さい。

?抵抗としての闘い以外の闘いはない、とおっしゃっていましたが、「集団的自衛権」とは「やられる前にやる」という意味ですか?
?また、やられてからでは遅いのだから、自分たちの住む地域を直接攻撃されてから抵抗してもダメだ、という意見にはどうお答えになりますか?仮にイスラム過激派にテロ攻撃を受ける前に、テロリストだけを殺し市民を巻き添えにしない手段があったとしましょうか、テロリストに日本を攻撃される前にその手段を使うというのはいけないのでしょうか?
?国家には実体はないのでしょうか?あ、すいません、ないですね。国家も国境も恣意的なものですね。この質問はナシにします。
?ただ、国民を団結させるために崇拝対象を作るのはいけないことでしょうか?

 ちなみに僕自身の立場はまだハッキリしていません。これから本を読んだり人と話していく中で少しずつ固めて行こうと思っています。ぼんやりとですが、「戦争は避けたい」そして「今の日本には愛国心が足りないため、政治やお互いの国民を好きになれないことにつながっている」とは思っております。自分は「戦争は避けたい」と思っていても、戦争を肯定する人間に会ったときに自分の意思を曲げない自信がありません。先生とお話してそれができるようになれたら嬉しいと思います。

 お暇が出来たときで構いませんので、このコメントの返事を下さい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2005年11月11日
00:32
タケセン

?集団的自衛権とは、軍事同盟の加盟国のどこかが攻撃を受けた場合、攻撃された国を支援して一緒に戦うことを意味します。
?先制攻撃は、国際法上、認められていません。個人の場合でも同じで、相手が何かやりそうだと思ったから、という理由で先に攻撃することはできません。それを認めたならばどういう事態になるかは容易に想像がつきますね。
?愛国心とは何か?自国に対しての自然な親しみの心と、意図的にある国家像を愛するように仕向けることとは180度違います。実体のないものを「愛する」とは、精神病の一種でフェティシズムといいます。疎外感や不全感がもたらす幻影で大変危険です。以前に書いた「国とは何か?」クリックを見て下さい。
?団結させるとは、何のためにですか?
一人一人の生身の人間を愛し、優しい心を生み出すことは、団結という発想からは生じないでしょう。
以上、お答えです。

思考とは、自分のもつ「常識」を捉えなおす営みです。自分の頭で考える練習は、何より大きな「徳」と「得」をもたらします。ヌルハチさんにエールを送ります。では。

武田康弘

以後の質疑応答も順次載せますので、お待ち下さい。






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中2の西くんのブログー「大日本帝国憲法」批判-まっすぐな心と頭です。

2005-11-10 | 日記

中2の西山君のブログー「大日本帝国憲法」は、堂々としてかつ面白いです。
皆さん、ぜひ見て下さい。
私は、彼のまっすぐな考えと疑問に答える責任を果たそうと思います。「保守主義」への回帰しかできないテイタラクな政治家ー官僚ー教師ーマスコミ人ばかりでは、未来はないと思います。


武田康弘

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問題提起としての書評ー「公共哲学とはなんだろう」桂木隆夫著

2005-11-09 | 書評

以下は、「公共的良識人」紙12月号掲載予定の書評(4600字)です。公共哲学を、単なる「公共学」という社会学ではなく、哲学(恋知)にまで鍛えるために、「問題提起としての書評」を書きました。シリーズ「公共哲学」(東大出版会)の編者ー金泰昌(キムテチャン)さんからの依頼によるものです。日本社会に最も欠けている「差異」の尊重に基づく忌憚のない「対話」、そこからしかほんものの思想は生まれないと確信するがゆえの生産的な批判です。

==問題提起としての書評==
「公共哲学とはなんだろう」桂木隆一著けいそう書房・2005年9月刊) 

 著者の桂木隆夫さんが「公共哲学とはなんだろう?」と自問自答することで生み出された本書は、平易で丁寧な叙述を特徴とします。

 法哲学や公共哲学を論じるに必要なさまざまな思潮が取り上げられていますが、哲学的にはヒュームを中心とするイギリス経験論を基盤にしていることは一読すぐに分かります。大陸の合理論―ルソーやカントにも言及され、現代言語論の成果も背後には見えますが、それもまた経験論の視点から解釈されたものです。そこに本書の魅力もまた若干の物足りなさもある、と私には思えます。
 
 私は、著者と同世代(私が一才年少)ですが、著者とは全く異なる人生を歩んできました。「私塾の精神」による教育を仕事とし、現実の只中で哲学する者としての生を貫いてきた私と、大学の中で法哲学や公共哲学を教授してきた桂木さんとは、好対照です。

 さて本題ですが、桂木さんの結論は、おおむね妥当だと思われる部分が多いのですが、残念なことに、その思想の提示が弱々しく魅力的とは言い難いのです。それは何故なのか?実はそこに、一般の「言語的整理」の次元を超えた問題が潜んでいるのではないか、と私は見ます。したがってこの書評は、そこに照準を合わせて一つの「問題提起」を行おうとするものです。著者も言うように、「公共」の精神には、ぶつかり合うことへの信頼が含まれているはずだからです。以下に、失礼を承知で出来るだけ明瞭に私の考えを書いて見ます。桂木さんからの応答を期待しつつ。

 まず、最初に取り上げられているハーバマスの思想の成果と問題点についてですが、ハーバマスの公共哲学という社会理論は、その根を言語論に持っているのですから、そこに着眼しなくてはなりません。ハーバマスの提唱する「超越論的言用論」は、イギリスで展開されてきた言語分析哲学をドイツの超越論的哲学の伝統の中に生かす試みと言ってもよいでしょう。そこでは「理想的発話状況」が理念として設定されていますが、この理念は、もちろん現実的・経験的次元での話ではなく、超越論的な次元での想定に過ぎません。したがって彼の思想を桂木さんのように「あまりに理想主義的だ」とか「普遍主義的だ」と言っても批判にはならないでしょう。

 私は、彼らの問題点は、言語を全て「議論・討論」というレベルで捉えてしまう平面的な理論構成(ハーバマスは、コッミュニケーションとしての言語行為と討論としての言語行為の二つを並列して提示、説明するのみ)にあると見ます。同一の言語でもその機能のさせ方に着目すれば、日常言語と理論言語(または詩と物語の言葉)とは階層を異にしていることが分かります。次元が違うのですが、その点に無自覚な言語論は、言語を同一平面で捉えるために、立体的な人間の生における言語使用を、二次元化してしまうのです。言語の階層の違いを意識せずに、「発話場」の相違に無頓着になれば「言語至上主義」に陥ります。言語とは、ある特定の発話場の中ではじめてその「適否」と次に「意味」が確定するものであることが無視されると、言語の意味が浮遊してしまいます。ハーバマスは、言語の立体視ができずに「言語至上主義」に陥ったとみるべきでしょう。

 私の見るところ、どうしても言語、とりわけ活字のもつ世界は、立体としての現実を平面化して捉えるために、一見明瞭になるのですが、「現実」とはズレてしまいます。実感、イメージ、直観=体験として掴んでいる全体的な見方からは離れていきます。

 理念型の言説はその問題が見よい、というより本来は、意識的に理念次元を想定することでそれを超えようという工夫なので、それを経験論的次元に立って、「間違えだ」と指摘しても意味がないわけです。むしろ、理論的整理として当然のことを語っても、現実の変革においてそれが強い意味や力を持たないのが「経験論的」な思考―言説の弱点だと言えましょう。出方は逆ですが、やはり同じく言語使用の次元の相違に無自覚で、立体視ができない問題なのだと言えます。

 また、桂木さんは、ルソーやカントの「理念型」の思想も批判的に紹介していますが、その捉え方は、「経験」主義的-平面的です。プラトンの「国家」に倣いわざと現実にはあり得ない紙の上の理念を提示したルソーの思想―強固な教会・王による支配を脱して、あらたな「市民」社会を生むための激烈な文明批評と新社会創造のための苦難の作業は、経験的現実を超えた「理念」の構築を不可欠なものとして要請するのですが、そこで理念として提示された哲学を、著者のように「ルソーの一般意志は、愛国心の純粋性を強調することによって偏狭なナショナリズムを生み出すことになりました。」と言うのは、次元の相違に無自覚な見解でしかないでしょう。また、その後に「カントの人権の理念は、そのあまりの理想主義によって、いわゆる啓蒙的専制主義を招くことになりました。」という言説が続きますが、これは、共に「理念的次元」の話を「経験的・現実的次元」に引き下ろしてしまうために起こる混乱ではないでしょうか。立体交差なのに、平面として捉えて「危険だ」と言っているようなもの、私にはそう思われます。

 次に関連することですが、著者は、前記の経験論的な見方から、重要な発想転換を提示します。それは、従来の「正しい」法や社会という見方を捨て、替わりに「利益」をキーワードにすべきという主張です。原理的にはありえない「正しい」社会像の追求をやめようと言うのは当然で、私も賛同します。しかし、その代わりのキーワードとして「利益」を持ち出してもダメです。「利益」の追求はよいことですが、「正しい」の代わりにはなりません。観念動物である我々人間は、「利益」に代表される現実次元の価値だけでは生きられません。今まで人間を支えてきた理念的・ロマン的次元での価値=「正しい」に変わる価値にはなり得ないのです。私は、「正しい」社会ではなく、より「魅力的」な社会とは?を追求すべきだと思います。知識・履歴・財産の所有ではなく、存在そのものの魅力を!というのが私の哲学(恋知)の理論と実践ですが、人間の生とその社会のキーワードは「魅力」でしょう。魅力価値という「主観性」の追求は、主観性を深め広げることで普遍的な了解を生み出そうとする本来の哲学(恋知)の営みにピタリと重なる概念です。豊かで深い魅力を生み育てる思索と行為を目掛けたいもの。

 次に、6章の「民主主義」ですが、この章が最大の問題です。「エリート」と「大衆の中のエリート」と「一般大衆」という三区分に基づく結語―「エリートの育成と知的大衆の熟議の活性化が代表民主制のあるべき姿である」。これは、とうてい受け入れがたい結語です。広く社会全体の問題に対しては、専門家としての「エリート」など存在しようがないのです。法律の専門家や統計経済学の専門家や学際的な社会学の学者ならいますが、社会・政治問題を解決する専門家!?とは言語矛盾でしかありません。全体知と専門知の相違については10月号の本紙巻頭に書いた通りです。ご参照下さい。

 絶対者やエリートがいない社会制度である「民主制政治」を機能させるには、幼いころからの順を踏んだ教育が必須です。もしも、ただ親に従順に「受験塾」に通って東大法学部に入った受験秀才の青年が「エリート」の卵と思うのならば、笑止でしかありません。「知」とは何か?の基本をとらえ損なっているだけの話ですから。

 民主制社会においては何よりも大切な能力=「自治」を子どもたちが身につけるためには、自分の頭で考え、議論し、決定する能力を育成する大胆な教育改革が必要です。偏狭な国家主義のエリート教育ではなく、精神的自立を生む市民教育が絶対的な要件です。もう一度言いましょう。全体的エリートなど存在しないのが民主制社会なのですから、自治への関心と能力を育て、それを高く評価する教育制度をつくること、それがキーポイントになるのです。したがって官僚を含む公務員の仕事とは、「一般的なよさ」を考え、実行することであり、それ以上でも以下でもありません。彼らは、主権者である市民が税金で雇っているサービスマンなのですから。

 もう紙面がつきますので、手短に書きますが、最後の9章―「公共精神」には、傾聴すべき考えが幾つも出てきますが、日本的な心性―「多神教」の積極的評価はよいとしても、実はそれは人類文化としては「ふつう」のことであり、むしろ「一神教」の方が特殊な想念だということを忘れてはならないと思います。

 西洋の強い文化・文明を生んだ一神教に憧れ、近代天皇制=天皇教という「擬似一神教」をつくり出した明治政府。そのイデオロギーによる洗脳教育を行うことで生み出された近代日本社会の現実を真正面から見据えなければ、わが国における「公共性」は語れないと思いますが、残念なことに、本書はその点の掘り下げが極めて不十分です。

 強権と文字言語による支配が生み出した「文明社会」の問題点をていねいに解決していくためには、一人ひとりの実存から出発する深く哲学する「公共思想」が求められます。言い換えれば、平面の緻密化としての専門知に支えられたから社会から、立体的な全体知(民知―恋知)に支えら、ダイナミックな人間力によってつくられる社会への転換です。「公共」という思想とは、実存の力を解放することで、開かれた魅力ある社会を生み出すもの、私はそう考えています。

 あえて、問題点を列挙しましたが、誠実で丁寧な叙述の本書からは、学ぶべきものが多いと思います。私の思想との対比という変わった書評になりましたが、お許し下さい。
最後におまけ。私もヒュームを高く評価しています。「経験論」を超えていると思うからです。 

武田康弘



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仮面の顔―「まじめ・おとなしい・勉強が出来る」―殺人犯罪の子どもたち(「素顔同盟」)

2005-11-05 | 教育

今日5日の東京新聞「こちら特報部」に、殺人事件を起こした子どもの共通項として、△まじめ△おとなしい△勉強ができるの三つがあげられています。
親・教師への期待に答えようとして、ありのままの心を見せずに育った子どもが、ため込んだ「怒り」を一気に放出する、、、。

私の29年間の教育現場体験から、上記の記述はまったく正しい、と確信をもって言えます。

では、どうすればいいのか?
以下の長谷川博一さん(東海女子大学・臨床心理)の言は、その通りです。ご紹介しましょう。
「子どもに仮面を着けさせてはいけない。勉強ができて、誰から見てもいい子というのは、仮面を着けている。小さい子どもは悪いことをして当たり前だ。それでもわが子として認めてあげる。子どもらしく喜怒哀楽豊かに、好奇心のままにいろいろなことに手を出させればいい。その過程で失敗して当たり前。」

その通りで、
激しい言動、取っ組み合い、ぶつかり、いたずら、・・。こういう「暴力」や「反抗」がまず、一旦は肯定され許容されないと、人間は心の内側からの優しさや内的な秩序を形成することができなくなります。何事も、本気でぶつかり合うという基本の態度がないと、階段を上ることができません。心の不完全燃焼が有毒ガスを撒き散らすことになるのです。

そうなれば、後は、外側からの強制=外的秩序による躾と、宗教を含むさまざまな「思想」によって人間をつくる以外には方法がなくなります。==仮面を強要する==というおぞましい教育(刷り込み)が教育とされるのです。

幼いころから「受験塾」に通わされて、生身の人間としての激しい直接体験をもたない優等生たちは、殺人者にはならずとも、ひどい「自我主義者」にはなります。自我防衛の理論武装に必死になる愚か者としての「エリート」は、その分かりよい見本です。自他を不幸に陥れる言動を「善意」?で強行するおぞましい人間に成長!するのです。

「必要なのは、おどけ・ふざけ・悪さです -教育の原理ー」もぜひご参照下さい。

なお、教育出版の「中学3年教科書」に載っている『素顔同盟』は、とても面白いです。短編ですので、ぜひ読んでみてください。クリックで出ます。

武田康弘




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活字・文字言語と二次元的な頭 (思想の怖い話)

2005-11-04 | 恋知(哲学)

公共哲学MLへの一週間前(10月29日)のメール公開です。
(なお、山脇さんは「公共哲学とは何か」(ちくま新書)の著者で東大大学院教授です。私との思想的なやり取りは、目次をクリックし、メールの項を出して番号を再びクリックすれば見られます。「三者会談」の模様はクリックで出ます。


「・・・なお、社会の原理とは、「経験的事実」とは次元を異にする「理念的構築物」です。この両者の立体構造が分からない平面的な頭脳は、自民党議員のみならず、おおくの日本の学者にも共通する欠陥ですが、この二次元頭(「東大病」)を克服しないと、日本人は永遠に不幸です。民知(恋知)という全体知=立体的に事象の意味を知る頭を育てる努力が必要です。 「民知―恋知と公共哲学」(10月号の「公共的良識人」紙巻頭論文―武田著)をぜひご覧下さい。」(武田)


武田様

明日お会い出来るのを楽しみにしています。
それで、下記の記事の中で、あえて一つだけ批判するならば、理念的構造が理解できないことを「東大病」ということばと結びつけるのは、少しピントはずれで、インパクトが弱いと思います。というのも、戦後の東大総長であった南原繁ほど「理念的構築物」を強調した政治哲学を唱えた人物はいなかったと思うからです。彼は明らかにプラトン的・フィヒテ的なクリスチャンでした。
そのシンポが下記のように来月下旬に開かれますし、http://homepage2.nifty.com/public-philosophy/nanbara-sympo2.htm 南原の弟子達、丸山真男、福田歓一、加藤節らは、みな社会契約論者で、「理念的構築物」の意義を強調しています。したがって、武田さんの主張とほぼ同じと言ってよいでしょう。ですから、以下のような批判をする時には、東大病ではなくて、「受験病」「有名校病」「エリート官僚病」と言う方が、より説得力を持つのではないでしょうか?
山脇直司

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

山脇様。

ちょっと誤解を生んでしまったようですが、「この二次元頭(「東大病」)を克服しないと、日本人は永遠に不幸です。」(武田) と書いたように、「東大病」は、平面(二次元)的な思考仕方、の方にかかっています。

「理念主義」も「経験主義」も共に二次元的思考で、ほんとうは、「理念」と「現実」は立体イメージとして提示・説明されなくてはいけない、というのが武田の思想です。南原さんや丸山さんがどの程度このことに自覚的であったか否かは、いまは問いません。
ただし、少なくとも丸山真男さんは、哲学的には私の言う「言語中心主義」」の枠内に留まっていたことは間違いないでしょう。ただ、このことと「東大病」とは、直接関係はありません。わたしが言う「東大病」とは、山脇さんの言う通り「受験病」(受験知に価値を見る偏執狂)で、現実に存在する東京大学の関係者を指すことばではありません。

本題に戻りますが、「平面的思考」は、文字言語に依拠する人間にはなかなか避けがたいことです。したがってそれに依拠する度合いが強いほど、どうしてもそこに陥りがちです。まして、緻密・正確・矛盾なく、と構えるほどどんどん「平面」になっていきます。ここからの脱出には「命がけの飛躍」が必要!ただし、これは、人類文化のありようの大問題ですので、いまは一応の指摘に留めます。(「自覚した罪は半ば許されている」?)
ともあれ、明日の会での再会を楽しみにしています。

文字言語の問題については、クリックして下さい。この自覚がないと勉強するほど平面頭になっていきます。



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(増補)集団的自衛権による戦争には一切協力しないことが「正しい」のです。子どもたちに伝えましょう

2005-11-03 | 教育

戦争という国家エゴイズムは、認めないことが「正しい」のです。

もし、そのような決定を政府がしたら、従わないのが「よい」ことです。

この原理的で簡明な思想を一人ひとりが明晰に自覚し、子供たちに教えていくことが、世界の平和をつくります。

自分たちの住む地域を直接攻撃された場合を除き(現実にはまずありえないことですが)、いかなる戦闘にも参加しないこと、これが正しい選択です。「レジスタンス」としての闘い以外の闘いはないのです。

したがって、「集団的自衛権」など認められるはずがありません。

もし、政府が戦闘行為を決定したならば、それには一切の協力をしないことが「正しい」選択です。

こうした考えをしっかりと子供たちに伝え、世代を超えた共通認識とすることが必要です。

自民党の改憲案を葬り去るためにも、上記の考えを子どもたちに明確に伝えていきましょう。

全国の大人がブレずに子どもの教育にあたれば、靖国=国体思想をひきずる政治家は生き残れないはずです。

平和への責任は、子どもたちに上記の「正しい」考えを、家庭や学校で伝えれば、誰でもが果たせます。

未来の社会と人間のための責任を一緒に果たしましょう!

お母さん、お父さん、学校や塾の先生、
為にする言説=国家を実体化させて「国のため」を主張する「詐欺思想」を元から断ち、一人ひとりの生身の人間=実存が先立つという哲学(恋知)の原理をしっかりと教え伝えて下さい。

(さまざまな事象・物事を考えるとき、国ー国家を先立てるのが思考の原理に反することは、普遍了解的な「真理」として哲学的に論証できます。ありのままの私の主観性=心の内側から自ずと湧き上がる声から出発する以外には、思想は根付く場所をもたないのです。右翼的・左翼的を問わず、あるゆる「超越的基準」に基づく思想は、思想ではなく、為にするイデオロギーでしかありません。私が「客観神話」と呼んでいる客観主義の思考法(「一神教」はそのおおもと)が、あらゆる無用の混乱と対立を生んでいる元凶なのですが、これは、欧米崇拝や天皇教や東大病などの社会的病理を生み出す暗黙の想念です。この問題は、現代の哲学(恋知)の最大の課題ですので、「民知ー恋知」論の続きとしてしっかり書かなければいけないと思っています。)

武田康弘




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日本に求められているのは、天皇制的精神風土から「民知―恋知」へのコペルニクス的転換を果たすこと

2005-11-01 | 恋知(哲学)

武田康弘です。 (公共哲学MLメール)

昨日(10月30日)の「スピリチュアリティと公共性」のシンポ、スタッフの方ご苦労様でした。さん、お久しぶりでした。メールを受けて書きます。

「(天皇、皇后に)二人並んで目の前で手を振られてしまい、本当にリアクションに困りました。 まぁ、あまり悪意のない夫婦という印象でしたが。 今や天皇制は豆腐のようなふにゃふにゃしたものになり、その分、手ごわいものになっているのかもしれません。」(

昔からそうです。個人としての天皇という人間の問題ではなく、天皇制という制度ならざる制度=天皇制的心性・精神風土が大問題なのですね。

まさに「日本書紀」の叙述仕方に象徴されるように、相矛盾し対立するいろいろな見解を並列して載せ(一見民主的)、しかし、結論は決まっていて動かせないようにしてある。内容ではなく、序列という形式による支配を本質とするのが、「形式・様式」を暗々裏に強要する天皇制という思想ならざる思想です。

天皇家は、スピリチュアリティ(霊性)の本家ですからね。スピリチュアリティによって社会の全成員を、縛るともなく縛るのです。これは、多くの日本人に共通する心性であり、右翼も左翼も、日本主義者も欧米に憧れる「西洋かぶれ」も、インテリも非・インテリもその点はみな変わりません。

ここからの脱出は容易ではありませんが、その課題に真に答えようとするのが、私の提唱する民知ー恋知という思想です。 (?民知宣言 ?民知ー恋知と公共哲学
従来の「個々の思想内容の検討」に留まらず、「知の枠組みそのもの」を変えていこうという試みで、それは民主制という政治制度の変革を「知」の次元において遂行しようという大胆な(実は一番ふつうの)試みです。両者はほんとうは一体のもの。

それは、生き方=考え方=生活仕方=話し方=物事の進め方・・・・・の全ての領域を、生き生きとしたもの、臨機応変・当意即妙ー自在でダイナミックなものにしてゆこうという試みです。楽しさと悦びの世界を生み出す生活世界(学的世界もその一部として含まれる)の革命です。

曖昧模糊とした「霊性」ではなく、あらゆる障壁を障壁としない囚われの少ない心が生み出す健康な霊性=霊性ならざる霊性こそがほんものです。人間が真に心身全体で生きる=のびのびと自由闊達に、自己の存在を深く肯定して生きられる思想をわがものとする人生、あらゆる種類の抑圧を笑って越えてゆく深く逞しい精神が、「霊性」です。

天皇制のつくる不分明で特権的な霊性を、飄々(ひょうひょう)とかつ断固として越えていくのが民知=恋知なのです。それに反して「事実学」の並列で、本質や意味を深める「意味論」を避けるという反哲学(恋知)の省エネの頭の使い方は、天皇制的な様式主義でしかありません。

(天皇や皇族の個人としての人間性のよさと、天皇制という制度と心性が生み出す困った問題とは分離して考えることが必要です。)

武田康弘



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