思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

昭和天皇実録   戦前の国体主義 と 戦後の民主主義がともに「昭和時代」!?

2014-09-09 | 学芸

 NHKのニュースで、「昭和天皇実録」のことを報じていました。

 宮内庁が天皇制維持の立場から編集したものですが、
(苦渋のという形容詞をつけて)昭和天皇が日米開戦を決断したと明記されているとのこと。

 改めて、明治政府が作成した「国体思想に基づく近代天皇制」について思いを巡らせました。

 満州国建設(中国大陸を侵略)を積極的に認め、そのまま10年後には対米戦を決めた昭和天皇のヒロヒトは、戦後に自害も退位することもなく、寿命をまっとうしましたが、敗戦の責任もとらずにそのまま同じ天皇という名を貫いたわけです。神々の系譜である天皇とは「生きている神」であるとする戦前の天皇から、無条件降伏した後の「人間天皇」を一人で演じたのです。それが同じ「昭和時代」と呼ばれるのですから、もう言語に絶する話で、理性の入る余地はありません。

 個人としては、ヒロヒトは被害者でも加害者でもあるでしょう。明治政府のつくっ思想と制度の中で育成された一人の男の悲喜劇を最期まで、おそらく演じるという意識すらなく演じたわけですが、彼を通常の一個人とみなすにはあまりに特異です。一人の人間を評しようもない存在にしてしまう明治以降の「近代天皇制」とは、深部から人権を消去する装置と言えるようです。

 天皇とよばれる男性の人権も、皇族以外の人間の人権も、タブーをつくることで奪い、一番深い地点で個人の自由=実存を消去して全体一致させる仕組みが「近代天皇制」です。「私」の思想及び良心の自由は、公共空間からは消去されるのです。日本人なら誰でもが知っていることです。

 

 それにしても1975年の秋、アメリカ訪問から帰国したときの昭和天皇の発言ほど恥ずかしいものはなく、声を失います。

「陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっていますか」との記者の問いに対して、

そういう言葉のアヤについては、私は文学方面はあまり研究していないので、よく分かりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。

 はーーーっ とため息をつくしかありません。どこの国でも通らない話がわが国だけは通る。なんということでしょう。

 

武田康弘

 

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『よい』(最大のイデア)とは。 ギリシャ思想の核心を一言で。

2014-09-08 | 学芸


 『よい』とは、「かたまじめな善」のことではありません。

イキイキとしていること、輝いていること、しなやか・伸びやかなこと、みずみずしいこと、自由で囚われのないこと、愉快なこと・・・・を言います。


 こうした『よい』は、「エロース」古代ギリシャ思想に基づくものであり、「アガペー」(キリスト教会思想)からは出てきません。神への愛という飛躍=「反自然」ではなく、生活世界・具体的経験の只中に「真善美」を見ようとする健康で人間性豊かな心が生みだすものです。

 

以上は、2001年に書いて、白樺同人の共通了解となっている思想の基盤です。


武田康弘

 

詳しくは、「恋知」第二章を。以下です。

 いま、エロースと言いましたが、わたしの長年の哲学講座で「エロース」というと皆さん驚かれます。
テツガクとエロス!?!? どういう意味ですか、と聞かれます。ソクラテスの弟子のプラトンが創った歴史上最も名高い学園『アカデメイア』の主祭神はエロースですので、これについて少し説明してみます。

 恋愛の神は、ギリシャ語では「エロース」、英語では「キューピット」です。「エロース」は、哲学(正しくは恋知)の動力源であるゆえに、「アカデメイア」の主祭神とされました。
 ソクラテス‐プラトンの思想の核心は、人間の欲望を肯定するところにあります。荒々しい欲望も否定するのではなく、飼い馴らすものとされます。飼い馴らすことで、人間の最高の欲望=よいこと・美しいことそのものを求めるためのエネルギーとして生かせ、と言います。生命を支える荒々しい闘争心は、そのままでは人間性を破壊してしまうので、それを真善美=普遍性を希求する方向に変え・活かすというのが恋知(哲学)の核心です。
 このように、恋愛の「聖なる狂気」(「俗なる正気」の対)をつかさどる「エロース」神は、深い納得=恋知(哲学)をつくるための動力源であるがゆえに、学園「アカデメイア」の主祭神となりました。後に現れたキリスト教の「アガペー」(神の愛)とは発想が根本的に違います。

 なお、廣川洋さんによると(講談社学術文庫1361「プラトンの学園 アカデメイア」) 「アカデメイア」は、プラトンの私邸と小園と小規模な図書館と体育館兼対話場からなり、アテナイの市民は、自由にこの学園の教育と研究の様子を見学することができたといわれます。階級の別はなく、授業も形式ばらない友達どうしのような話しことばで進められていたので「友人たちの学校」と呼ばれていました。宗教的な匂いは全くなく、プラトンのシュンポシオン(英語読みではシンポジューム)は、くつろぎと対話の愉しみを求めて、知的香気の高い雰囲気のうちにお互いに愉快に交わるのが常であったと伝えられています。

 そのような訳で、恋知(哲学)とエロースは、何よりも深く結びついています。エロースとは、人間的な魅力の源泉のことであり、また人を惹き付けるあらゆる事象の総称でもあるのです。」

 ※ 厳禁の精神を表す必然の神のアナンケを打ち破ったのが恋愛の神エロースです。
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一族の威を借りる愚かなガキのごとく。日本主義の妄想をもち外遊する首相の狂気性ー危険極まる。

2014-09-07 | 社会批評

安倍首相の行為は、

 

問題解決をしなければならない国との外交はせず、

日本が有利に立ち回れる国と分野に限定した上で、

サカリのついた犬のように外遊外交に現を抜かし、

キナ臭い取引や中国との敵対関係構築に走り回る。

 

一族の威を借りて威張り散らす愚かなガキの如く。

 

彼がバカげた戦前思想の妄想で動き周り、日本チャチャチャの子どもじみたお祭り騒ぎを続ければ、わが国は大元から崩れる去る。国民みなが首相の言動の愚かさを認識しなければならない。

マスコミの責任も重大。NHKは公共放送のはずー北朝鮮のような政府御用ニュースをやめよ!

 

武田康弘

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白樺教育館・恋知・タケセンのこと     泥 憲和   高城 久   染谷 裕太

2014-09-07 | 学芸

 

Facebookに寄せられた3名の方の文章をお載せします。
みなさん、応援をどうもありがとう。とても感謝です。武田康弘

 

   武田先生(タケセン)と白樺教育館と僕            染谷 裕太

        
  (
facebookに「白樺教育館」のページができたのを機に)

 
 白樺教育館(のソクラテス教室)は僕が中学1年から大学卒業までず~っと通っていた場所で、僕が今もっている趣味、自転車、写真、オーディオ、は全て武田先生の影響です。もし通っていなかったら自転車世界一周だってやろうとすら思わなかったでしょう。いちおう誤解のないように言うと、通えば世界一周したくなるとか、そういう授業をしているという意味ではありません(笑)

 僕がここで何を教わったのか。10年以上通っていながら中々簡潔に説明するのが難しいですが、一つキーワードを挙げて説明するなら「存在」。それも「わたしの存在」。

...

 お金を沢山持つことによって、社会的な地位を得ることによって、あるいはブランド品を沢山持つことによって、学生であればテストで沢山点数をとることによって・・・それらを持つことで自分の存在を大きく価値のあるもののように見せる事。それが生きる上で最も大事な価値であり、生きる意味である。

ではなくて

 ”わたしの存在”そのものを深め、豊かにすること。
何がほんとうだろう、よいだろう、美しいだろう、と考え求めること。誰々が言ったから、本に書いてあるから、じゃなくて、わたしがどう思い、どう考えるのか。世間的な価値を基準に置いた人生ではなく、わたしが「よい」と思うことを、自身の納得をめがけて生きること。

 そういう生き方を武田先生は恋知の生と呼んでいます。
いや、恋知ってなんだよ、と思うでしょうが、イコール哲学です。哲学というと小難しい理屈を並べて、わけの分からないことをだらだらと考える、みたいなイメージがあると思いますが、そういうのは、
本来の哲学ではございません。そもそも哲学というのは古代ギリシア発祥で・・・という説明は長くなるし僕の手には余るので言い出しっぺ(笑)の武田先生の文章をお読みください。

こちら
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori150.htm


 息苦しくなるような、というか窒息しそうなほどの日本の現状で、この歳(27)になって定職にもつかず、金も社会的地位も学歴も資格(大卒で普通免許はある)も一切ない。その点で見る限り、非常にマズイ人生を送っている僕ですが、自分のやりたいことを存分にやって、人生はなんて素晴らしいんだと、完璧に楽しんでしまっているのは、外的な価値は自分にとっては何の意味もないし、全然価値じゃねー、との確信を持っているからです。

というわけで興味のある人「いいね!」を押してみてください。
https://www.facebook.com/pages/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%95%99%E8%82%B2%E9%A4%A8/557834554344817?ref=profile

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【白樺教育館】のFacebookページが出来ました。皆さん、是非 いいね!をお願いします。   高城 久
https://www.facebook.com/pages/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%95%99%E8%82%B2%E9%A4%A8/557834554344817?ref=profile

白樺教育館々長の武田康弘さんは長年の友人であり、私の自己了解に大きな示唆を与えてくれた方でもあります。

...

武田さんはフィロソフィーを哲学哲学ではなく「恋知」としています。恋知とは、集団同調による「一般的正しさ」ではなく、宗教的信念による「絶対的正しさ」でもない、善美に憧れて深い納得をもたらす「普遍的正しさ」を求める営みです。

恋知の実践の場でもある【白樺教育館】の基本姿勢は「所有から存在へ」です。
「知識や履歴、財産(金品)の所有の数量を競うのでなく、人間の生きる意味は、存在そのものの魅力を拡げ、深めること」「所有を競うのではなく、存在そのものの魅力を開拓してゆく努力。唯一それのみが、人間が人間として生きるに値する生でしょう。」と武田さんは言います。

皆さんも生き活きとした生のヒントを共有しませんか?

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【 白樺教育館 のこと 】                泥 憲和

 

 ソクラテスを愛し、思索の発信を続ける「白樺教育館」館長の武田康弘さんは、フィロソフィの訳語を「哲学」としないで「恋知」と訳す。

 「恋知」とは聞き慣れないし、こなれない訳だと思われるかもしれない。...
 だが「フィロソフィー」とは「知恵(ソフィアsophia)」を「愛する(フィレインphilein)」というギリシャ語が語源だから、直訳すれば「恋知」である。
 「愛知」でもいいのだろうけど、これじゃまるで愛知県のようだと思って気付いたのだが、いい県名だよね、愛知県。兵庫県(兵器倉庫という意味)よりはよほどいい。これは閑話休題。

 日本で恋といえば男女の色恋沙汰のイメージがどうしてもついてまわる。
 だから「恋知」といわれてもちょっと色っぽくて哲学という学問に似つかわしくなくて、ピンと来ないイメージがある。
 哲学という訳語は明治時代に西周(にしあまね)がつくったそうだ。
 「希哲学」といった。
 「哲(筋道が通り、賢いこと)」を「希(こいねがう)」学問というのだから、正しい訳語だったと思う。
 しかし日本になじまなかった。
 いつしか肝心の「希」がとれて「哲学」になってしまった。
 明治時代にあってはいまだこの世にない解答をこいねがう学問ではなく、すでにある解答を学ぶだけの学問が求められていたせいだろうか。

 「哲学」という訳語は「筋道が通って賢い」という意味だから、ことの半分しか表現していない。
 筋道が通っているだけでは哲学ではない。
 明治以来、日本は西欧の知識をキャッチアップすることに急で、考えるより学べ、慣れろというのが教育だった。
 あらかじめ用意してある正解に、筋道立てていち早く到達する技術、それが学問だったと言えそうだ。
 だが、この世の事柄の大半には正解がない。
 西欧の学問も、西欧社会も、ある地点から先は答を用意できない。
 学ぶだけだと、知的探求の営みはそこで止まる。
 肝心なのはその先にある、知りたい、考えたいという知的な欲求であるはずだ。

 わからないことをわかること、人類の誰も考え付いたことのない新しい認識、その高みに至る営為、それは苦しい作業に違いないが、その作業に耐える知的忍耐、忍耐を支える知的好奇心や探究心を育てることこそが、教育の目的だろう。
 東京帝国大学は、現実から遊離した論理操作や形式的なつじつま合わせだけが上手な役人を大量に養成したけれど、西欧のお手本をなぞったり日常業務におけるこまごました問題を解くことには強くても、正解のない問題に直面すると、机上の空論に走りやすかった。
 その人材養成システムは第二次世界大戦で破たんした。
 にもかかわらず、いまだに似たようなことを繰り返しており、それが現今の日本の危機を招いている。
 いま必要なのは、現実世界の困難を論理的に哲開していく知的冒険、すなわち哲学、恋知だ。
 というのが、武田康弘さんの問題意識だと私は解釈した。
 で、最高学府で学んだことのない自分が偉そうにいうのもなんなのだが、たしかにその面は大きいのではないかと思う。

 西周がせっかく作ったけれど、「希哲」という成語はなじみにくい。 
 たとえば文法的には「育体(体を育てる)」が正しいはずなのに体を育てるという日本語の語順に引きずられて「体育」が定着してしまったように、「希哲」を「哲希」とでもしておけば「てっきがく」といって口にしやすく元の意味も保存されてよかったかもしれないのになあなどと、考えても仕方のないことをつい考えてしまった。
 また横道にそれた。

 ともかくである。
 武田さんの「恋知」のFBページ「白樺教育館」が立ち上がった。
 凝り固まって肩こりしそうな日本の哲学シーンをどのように軽やかに乗り越えて、フィロソフィ本来の自由闊達さ、現実変革の力強さを取り戻そうとなさるのか、楽しみなことである。
 ということで、「いいね!」をよろしくお願いします。

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カーネギーホールでのホロヴィッツ41枚組、不世出の音色の魔術師とペライア。

2014-09-02 | 趣味

 

 高校生のころから聴き続けてきたホロヴィッツ。
華麗なる名人芸と自己への沈潜が同居し、七色に変化する音色は、誰もまねできない独自の世界。
 1年前に買い、まだ全部は聴き切れていませんが、カーネギーホールでのホロヴィッツのライブ演奏を収めた41枚組のCDボックス。

 昨晩からは、1967年11月のライブを聞いています。ベート-ヴェン28番から始まり、ショパン、スカルラッティ、シューマンのアラベスク、いまラフマニノフのエチュード。この後にアンコール。最後は彼が編曲したカルメンのテーマ。

 しかし、ホロヴィッツほどカーネギーホールが似合う男はいないな~~~!独自の美学は、なにもかも超えて慄然とキラキラ輝く。主観性に徹した粋な男の晩年、入りびたりだったのが(死の前日まで)昨年に続き今年11月に来日のペライア。20代の時。

 う~~ん、ペライアが、自分の演奏がホロビッツの影響ではない、と言うのは分かる。うん、似てる(笑)。しかし、到底まねのできるものではない。ペライアが誰よりも和声を重視する交響的大きさの世界を切り開いたのは、ホロヴィツの後にはそれしかないという必然ではないか。

 なんと豊かな人間同士の交流だこと。



 

 武田康弘

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