思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

軍事主義のボンボン首相が、いよいよ日本をチェンジ!国民益を失う「反・平和主義」の愚かさ。

2015-05-13 | 社会批評

ボンボン首相の安倍という男は、軍事力に頼るアナクロニズムで、日本人を危険に陥れる。
官邸から、自衛隊に中国軍船と戦闘機への異常接近を命じ(元自衛隊員の証言)中国を挑発する、中国の反発を利用して中国憎しの世論をつくる。
マスコミを威圧し、反対勢力を封じ込める。
戦争に備えよ!とばかりに安保法制を整え、国民の負担は当然とうそぶく。
ボンボンゆえに、暴走は留まるところを知らず、多数を握っているために、周囲は、ただ従うのみ。

今朝の『東京新聞』一面は、「地球規模で、米軍と自衛隊の一体化が進む」と書いていますが、日米安保ー日米地位協定の下、アメリカ軍の押しつけにはボンボン首相はYES!!、国民主権の新憲法=アメリカ民生局に押し付けられたプラスの遺産にはNO!!、マイナスの遺産は堅持し、拡大するという自民党という政党は、国民の敵というほかないでしょう。

 


 

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「芸を仕込まれたアシカ」と同じような現代文化ーそれと対極にあるポール・ルイスのピアノ

2015-05-10 | 学芸

芸術でもスポーツでも、はては、学問も政治も、
現代文化の特徴は、「幼いころから芸を仕込まれた人たち」が華々しく活躍するところにあるようです。

 自分自身の内なる興味や関心に従い、思考錯誤しながら何かに取り組むのではないのです。

 だから、どんなに上手くても、どんなに華麗な技をみせても、どんなに知識を披露しても、わたしの心身・臓腑に落ちません。壮大な嘘・華麗なる嘘は、どれほど美しく見えようとも、人間ゆえの善美の世界とは異なります。

 内なる精神の躍動、内からの湧出ではなく、「つくりもの」でしかないのです。

   後から知ったことですが、わたしが悦び感動したベートーヴェンのピアノソナタ全曲とディアベリの主題による変奏曲を弾いているポール・ルイスがピアノを始めたのは、12才の時とのこと。しかも両親とも音楽とは無縁の人であり、彼個人が、8歳の時にクラシックが好きになり、図書館でレコードを借りて音楽にのめり込んでいったとのこと。

 なんだか現代では奇跡のような話ですが、これを知ってわたしは、深く納得したのです。なぜ、これほどまでに彼のピアノがわたしを惹きつけるのかを。心身の底から満足ー稀有な例です。

 わたしたち自身がこの「芸を仕込まれたアシカ」という世界とは無縁なところで生きたいものですが、マスコミによる占脳・染脳は、実に深く、そこからの脱出は容易ではないようです。

 学習も同じ、幼いころからその子の興味とは無縁で、仕込むだけ。これでは精神疾患者の方が多数を占めそうですね(笑)、おっと、笑ってはいられませんが。


 武田康弘

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「戦争に向かった戦前と似ている」ー石田雄(東大名誉教授・社会学91歳) 安部首相の恐ろしさ。

2015-05-09 | 社会批評
一年近く前の記事ですが、ぜひ、お読みください。拡散もよろしくお願いします。
(太字、色字は、武田による)
 
東大名誉教授・石田雄氏 「戦争に向かった戦前と似ている」
2014年7月7日  日刊ゲンダイ

 

学徒出陣した私には首相のいかがわしさがすぐ分かる

...
先月、朝日新聞の「声」欄に、「人殺しを命じられる身を考えて」という投書が載った。末尾には大学名誉教授 石田雄(東京都 91)とある。この投書が話題になったのは、石田氏は戦争の生き証人であるだけでなく、その生涯をかけて、「どうしたら、二度と戦争を繰り返さないか」を研究してきた学者であるからだ。投書した老学者の目に、いまの安倍政権はどう映っているのか。

――なぜ、投書を書かれたのか。やむにやまれぬものがあったのでしょうか?

 私は軍国青年だったんですよ。自分がなぜ、そうなったのか。それを明らかにするために研究者になったんです。二度と戦争を起こさせないために政治学、社会科学を研究してきたつもりでしたが、こういう時代が来ちゃった。

――こういう時代とは?

 戦前、戦争に向かっていった時代と非常に似ていますね。しかし、この年ですから、デモにも行けないし、官邸前で大きな声を出すわけにもいかない。社会科学者として何ができるか。切実に考えて、やむなく、朝日新聞に投書したのです。

――具体的には、どの部分が戦前と似ているのでしょうか?

 私は「日本の政治と言葉」という本を書いた際、「平和」という言葉が歴史上、どういうふうに使われたかをフォローしたことがあるんです。平和というのは最初は、非暴力という意味で使われる。しかし、日本においては次第に東洋平和という使い方をされて、日清、日露、日中戦争において戦争の大義にされていく。これは日本の戦争に限った話ではなく、ありとあらゆる戦争の言い訳、大義名分に「平和」という言葉が利用されてきたのです。唯一の例外がナチス・ドイツの侵略ですね。こういう歴史を見ていれば、安倍首相が唱える「積極的平和主義」という言葉のいかがわしさがすぐわかるんですよ。

――平和という言葉の使い方がまず、そっくりだと。

 それと排外的なナショナリズムのあおり方ですね。積極的平和主義と排他主義が重なり合うと、非常に危険な要素になります。平和とは非暴力であり、非暴力とは敵を憎まないことです。敵を理解することで、問題を解決しようという考え方です。しかし、今の安倍政権は中国、韓国を挑発し、緊張をつくり出している。そこに積極的平和主義が重なるものだから、危ないのです。

■もう一度「国のために死ね」と言うのか

――靖国参拝がいい例ですね。

 論外です。戦争体験者として、個人的な意見を言わせてもらえば、誰がお国のため、天皇陛下のために死んだものですか。みんな無駄死に、犬死にだったんですよ。歴史学者の藤原彰氏の調査によれば、戦死者の6割が餓死だったという。特攻隊だって、どうせ死ぬなら、美しく死のうとしたわけで、誰も喜んで死んだわけじゃない。それを美化し、首相が「尊崇の念を捧げる」などと言うのは「もう一度、国のために死んでくれ」という宣伝だと思う。死んだ人の霊を慰めたいと言うのであれば、それは二度と戦争を起こさないことなのです。

――政府は集団的自衛権の行使についても、限定的であって、戦争する国になるわけじゃないと主張しています。

 海外の邦人を保護するため、と言っていますね。この理屈も戦前と似ています。1932年の第1次上海事変の直前、日本人の僧侶数人が殺傷される事件が起こった。日本政府は邦人の生命を守るという名目で、上海の兵力を増強し、戦闘が拡大。その後、本格的な日中戦争になりました。個別的自衛権であれば、「日本の領土内に攻め込まれたとき」という歯止めがかかりますが、邦人保護という名目で海外に出ていけば、歯止めがなくなってしまうのです。

――駆けつけ警護はどうですか?

 アフガニスタンで援助活動をしているペシャワール会の中村哲代表は「自衛隊が邦人救助に来るのは危ないからやめてほしい」と言っています。実際、ペシャワール会は日本がインド洋の給油活動をする前は、車両に日の丸を掲げて活動していた。それが守り札になったからです。しかし、給油活動を境に日の丸を消した。米国と一体と見られる懸念があったからでしょう。集団的自衛権による武力行使や集団安全保障による制裁措置に自衛隊が参加すれば、ますます、憎悪と攻撃の対象になる。もうひとつ、集団的自衛権で海外に出ていけば、おそらく、米軍の傘下に入る。邦人がいなくなったから帰ります、なんて言えるでしょうか。米軍は無人機で攻撃する。一般市民が巻き添えになれば、その恨みは陸上で展開している自衛隊に向く。こうなる可能性もあるわけです。 

――戦後70年間、せっかく平和国家としての地位があるのに、あえて、それを捨てて、恨みを買う必要があるのか、ということですね。

 言葉がわからない地域で武力行使をするのがいかに危ないか。イラクに駐留する米軍が「止まれ」という制止を振り切った車両を攻撃したら、殺されたのは、お産が近づき、病院に急ぐ妊婦だったという報告もありました。相互理解がなければ、どんどん、紛争は激化してしまう。それよりも、日本は戦後一人も海外で人を殺していないというプラスの遺産を生かすべきです。非武装の支援に徹すれば、外交的パワーもついてくる。その遺産を今、食い潰してしまうのは誠に愚かなことです。

首相は他者の気持ちが分からない人

――先生は殺せと命じられた身にもなってみろ、と投書で書かれましたね。

 私の父親は二・二六の直後に警視総監になったものだから、寝るときも枕元に拳銃を置いていた。父親は神経がもたず8カ月で辞任しましたが、私も武器恐怖症になって、不眠症が続いた。学徒出陣となって、徴兵検査のときは兵隊に行くべきだと思っていたが、人を殺す自信がなかった。東京湾の要塞重砲兵に配属になったのですが、軍隊というのはいつでも誰でも人を殺せる人間を作る。そういうところなんですね。敵を突き殺す訓練をやらされ、「そんなへっぴり腰で殺せるか」と殴られる。命令があれば、それがいいか悪いかを考えちゃいけない。なぜ、それをやるのかを聞いてもいけない。幸い、負け戦でしたから、敵が攻めてきて殺されるのを待っているような状況でした。そんな中、東京空襲に来た米軍の戦闘機が東京湾に墜落して、パイロットが泳いできたんですね。捕まえて司令部に報告すれば、「殺せ」と命令されるかもしれない。捕虜を殺すのは国際法違反です。しかし、命令に背けば、陸軍刑法で死刑です。これは大変なことになったと悩みました。

――しかし、命令する側は平気で「殺せ」というわけですね。憲法解釈を変えれば同じような境遇に自衛隊員も置かれる。殺される方もたまらないが殺す方も大変だ。そういう国に戻そうとしている安倍首相という政治家をどう見ていますか?

 自分よりも不利な人の立場で物事を考えられないのだと思います。他者感覚の欠落、共感能力の欠如というか、ずっとチヤホヤ育てられると、そうなっていくのかもしれません。デンマークの陸軍大将、フリッツ・ホルンは戦争絶滅法案なるものを提唱していて、開戦後10時間以内に元首、首相、閣僚、議員を最前線に行かせる。そういうことを決めれば戦争はなくなると言っています。そういう立場に立たされれば、積極的平和主義なんて、簡単に言えるわけがないのです。

――国民も正念場ですね。

 一番恐れているのは沈黙の螺旋です。出る杭は打たれるからと黙っていると、その沈黙がだんだん広がって誰も声を出せなくなる。若い人の方が「出る杭は打たれる」と心配するでしょうから、ここは年長者が声を出さなければいけないと思います。

 

◇いしだ・たけし 1923年6月7日生まれ。旧制成蹊高校から東北帝国大学法文学部へ。在学中に学徒出陣を受け、東京湾要塞重砲兵連隊に入隊。復員後、東大法学部へ。東大社会科学研究所教授・所長、千葉大法経学部教授などを歴任。著書多数。

石田雄氏/(C)日刊ゲンダイ

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三枝恭子さんからのメール ー日本研究者の大物たち(米国中心)から安倍首相への声明文

2015-05-08 | 社会批評
昨年8月に、このblog「思索の日記」で
泥 憲和さんの「従軍慰安婦」の論文を英訳してもらえる方いませんか? と呼びかけたところ、
米国在住の三枝恭子さん(アメリカの大学で言語学を教授)が名乗りをあげてくれました。昨年12月に日本に一時帰国された時にお会いし、英訳論文は、今年2月に「白樺教育館」ホームページに載せましたが(アップは古林治さん)、三枝さんから以下のメールが送られてきましたので、コピーします。

武田康弘

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
もうお読みかとは思いますが、これが朝日のネット版に載りました。英語と日本語で同時に発表になったということです。私が個人的に知っている名前も、署名者の中に見えます。
 
泥さんの論文も こういう大きな動きの中で、信頼の置ける貴重な学術論文の一つとして役に立っていると思います。
 
三枝恭子
 
 

日本の歴史家を支持する声明(全文)

2015年5月7日21時22分

 
 全文は、上のUrlから。
以下に結語のみコピーします。
 
ーーーーーーー

 「 今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です。4月のアメリカ議会演説において、安倍首相は、人権という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、そして他国に与えた苦しみを直視する必要性について話しました。私たちはこうした気持ちを賞賛し、その一つ一つに基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません。


  過去の過ちを認めるプロセスは民主主義社会を強化し、国と国のあいだの協力関係を養います。「慰安婦」問題の中核には女性の権利と尊厳があり、その解決は日本、東アジア、そして世界における男女同権に向けた歴史的な一歩となることでしょう。

 私たちの教室では、日本、韓国、中国他の国からの学生が、この難しい問題について、互いに敬意を払いながら誠実に話し合っています。彼らの世代は、私たちが残す過去の記録と歩むほかないよう運命づけられています。性暴力と人身売買のない世界を彼らが築き上げるために、そしてアジアにおける平和と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り全体的で、でき得る限り偏見なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか。」
 
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武田哲学インタビュー《コーヒーブレイク》 内田卓志→武田康弘

2015-05-06 | 学芸

武田哲学へのインタビューコーヒーブレイク》 です。

 ここで6月のアテフ・ハリムのコンサートについて伺いましょう。バッハからラフマニノフ、クライスラーまでのコンサート楽しみですね。 ポピュラーな曲が多いのでこのFBをご覧の皆さんともお会いできるかもしれません。

 さて、ハリムは、あのヘンリク・シェリングのお弟子とのことですね。シェリングと言えば、バッハの無伴奏が凄かった。バッハの無伴奏の 話をしましょう。
 私は、生演奏は聴いていませんが、モノラルとステレオの二種類の無伴奏を持っています。武田先生もシェリングは好きですね。最近ならク レーメルの新録音のバッハが人気でした。私が若いころは前橋汀子さんのバッハが凄い人気でした。その後、日本の演奏家は素晴らしい活躍です。

 さて、期待のハリムはどうでしょうか?「シャコンヌ」だけのようですが、本当は全曲通して聴きたいです。きっとシェリングとは全く違っ た世界が聴けると思いますが・・・。             

内田卓志

=======================

内田さん、

バッハの無伴奏は、一番の感動は、シェリングでした。クレーメルの冴え過ぎの演奏は、音楽というより修行のよう。大変な実力者ですし、生で聴いたパガニーニの音楽の魅力=美しさは忘れられませんが。

ハリムは、従来のクラシックとは異なる温かさや親しみの音楽のように思えます。生で聴くのが一番よいのではないでしょうか。いまこの場で生きている人間同士の熱い心の通い合い、そんな感じがする演奏でしょう。来月28日(日)、上野の東京文化会館・小ホールでの演奏会、楽しみです。わたしは、シャコンヌだけで十分満足。

なお、バッハの無伴奏はシェリング、と思っていたわたしは、小林洋子さんが生で聴き感動したと記しているのを見て、ロシアの若い女性奏者・イブラギモヴァの全曲を買いましたが、これを聴いて驚愕! ああ、時代が変わった!と思いました。

大きな話をすれば、どこかに客観的な「よい」の基準がある、最高の演奏、ベスト1があるはず、という風な見方からの根本的な転回で、いわば、「私」=主観性の豊穣です。

しなやかで自由で、そのまま心身に沁み込むような音楽は、バッハであろうがなかろうがどうでもよい(笑)、ただそこに素晴らしい音楽が息づいていて、それに聴き惚れてしまうのです。20世紀のシェリングの男性的魅力の演奏が色褪せるわけではないですが、まったく異なる21世紀の若き女性のなよやかな無伴奏にいたく感動した、というわけです。

なお、わたしは全曲を一気に聞くことはほとんどありません。飽きてしまいますし、疲れますし。

 

武田康弘

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この世は「公共悪」がのさばるものですが、強がる国家主義者を支持する民衆では悲しいです。

2015-05-04 | 恋知(哲学)

この世は、「公共悪」がのさばるもの、ですね。 財力と強権を求める人々の本音が「公共悪」を生むのでしょう。

安倍という男は、エゴイストの国家主義者ですが、一般民衆は、こういう強情な危険人物に惹かれます。
【自己という座標軸が曖昧な人】=おひとよしや出世主義者や小心者や目先の損得勘定で生きる人や内的世界が希薄な人は、強がる国家主義者に引き摺られます。
そして、いつも戦争です。戦争は低所得者の命と引き換えに、経済を豊かにし、大所得者や大企業の利益を生みますので、歓迎されます。

一人ひとりが、【善美に憧れる自己=内的世界という中心】をもち生きるようにならないと、いつまでも悲惨の繰り返し。
大なるもの・外なる価値や基準に従うのでなく、フィロソフィ=恋知=私の生を目がけることは、何より大切・必要だというのが、わたしの思想。21世紀の人類の最大の課題ではないでしょうか。
一番小さく頼りなく見えるたった一人のこの「私」の魂こそ、全世界を支える普遍的な点であることが了解できないと、まだ何事も始まらないはずです。

「恋知」第一章

「恋知」第二章


武田康弘

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我孫子市 散歩市 マップ 5月7日~22日 (3つの彫刻説明)

2015-05-03 | 学芸

『我孫子市 散歩市』(5月7日~22日)のマップです(我孫子市市制45周年記念)。

図中に4枚の写真がありますが、そのうち3枚は、我孫子の彫刻紹介です。

 

は、『白樺文学館』玄関前に設置した「自帰依」(釈迦の遺言のごとき言葉ー自分に帰依すること+普遍的法則である法(ダルマ)に帰依すること)で、白樺精神を象徴するものです。白樺文学館を創設する時(1999~2000)に、わたしが佐治正大さんに依頼してつくってもらいました。大理石で重量は2トン、設置は手に汗握る作業でした。

は、手賀沼遊歩道の大理石の彫刻、親しみのあるまるい窪みの造形です「Enjoy手賀沼」安田侃さん制作

は、『白樺教育館』の手のとって(ドアノブ)です。わたしが白樺教育館を建てるときに(2012~2013)、中津川 督章さんに依頼して、握手する取っ手(人間味あふれる教育の象徴)をつくってもらいました。小さいですがブロンズとても重く、玄関扉への取付けは補強枠を入れて万全を期しました。

 ※拡大写真は、下にあります。
追加:なお、白樺教育館ホームページにも、いま、アップしました。多少、見やすくつくられていますので、クリックしてどうぞ。




1.自帰依   白樺文学館       2001年4月・撮影・武田


2.Enjoy手賀沼     手賀沼遊歩道     2011年9月 撮影・武田



3.手のとって   白樺教育館   2011年11月・撮影・武田
 

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集団的自衛権行使の3要件は、200年前のウエブスター見解と同一。それで戦争をし続けてきた。

2015-05-03 | 社会批評

集団的自衛権行使の新3要件は、
緊急性があり、
他に手段がなく、...
必要最小限であること。という。しかし。

1837年のカロライン事件のとき、アメリカとイギリスの間にウェブスター見解という話がまとまった。それは、自衛権とは
緊急性があり、
他に手段がなく、
必要最小限であること。
そういうときには戦争しても良いという用件だ。
全く同じ3用件です。
ウェブスター見解以来、国際慣行法的には全ての戦争はこれに当てはまる。アメリカにとってはイラク戦争もアフガニスタン空爆も、広島原爆ですら、国際法的にはウェブスター見解の範囲内とされる。

つまり、自民党の集団的自衛権の新3用件は、何の歯止めにもなっていない。新どころか、200年も古い。
歯止めがあると、国民を騙しておいて日本はアメリカの戦争に切れ目なく参加する。それが自民党の目標なのだった。

以上は、泥 憲和さんの講演を弦巻 吉春さんがメモした文章です。


武田康弘

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安倍という男、戦前思想を救済するために生き、アメリカに行けばゴマすりで点を稼ぐ。国政は自己のために!

2015-05-01 | 社会批評

わが日本国をアメリカ軍と一体化させ、国民ではなく、自分の一族と旧財閥のために政治を行う。

米軍と自衛隊を合同させ、アメリカだけでは維持出来ない「世界の軍事支配」に手を貸し、覇権国家をめがける。

戦後の平和主義こそアナクロニズムだと断じ、「軍事力の行使をためらってはならない」と自著に書く。

この男、到底まともではないが、わが日本国民は、その底知れぬ恐ろしさに気付かない。ヒトラーが民主憲法の下で台頭し、「合法的」に独裁政治に変えた歴史を知らないのは罪である。

アメリカ軍への忠誠を誓うということと、戦前の日本主義(=国体思想=靖国思想)を復活させることをリンクさせ、戦後アメリカの民生局がもたらした人民主権の民主政を有名無実にする、それを安倍は、「戦後レジーム(体制)からの脱却」と呼んでいる。

A級戦犯の祖父である岸信介を敬愛するという安倍は、オバマとアメリカ議会にゴマをすり、アメリカの非難をかわし、日本国内における安倍支配を強固にすることで、戦前の日本国家主義の復活のために血道をあげる。

自民党の元幹事長たちも指摘するように、これほどの公共悪を働く首相は、はじめてのこと。わが日本人はこういう男に支配されたがっているのだろうか?

 

 武田康弘 (元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員=哲学講師)    写真は、先月、泥 憲和さんと柏で。


 

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