移動するうさちゃん
ある道徳教育についての新書を読んでいたら、眠くなってきたので、ヤナーチェクで眼を覚ます。
道徳やモラルを民主的・科学的な手続きでつくりあげようとする動きは、アカデミズムではよくあるような気がするんだが、なんとなくこれじゃだめだあ、と思う。サンデル式の二律背反的発問もそうだし、WINーWINを目指す議論や構成主義やなんやらもそうなりがちなんだが、かかる議論をしがちな人間がなぜか権威主義的になっていくのが問題だと思う。そもそも、誰かが獲得して誰かが失う(WINーLOSE)のはいけないと思うその人がどのような自意識を持っていたかが問われなければならない。WINーWINを主張する理由が、よりによってその人がLOSEの側に回りたくないだけのことである可能性がある。本当にLOSEの側であったなら逆襲の権利はある。しかし、もはや我々が自らをLOSEであると感じる意識は全く信用できない。明らかに間違ってしまったと思っている自意識は、世の中常にWINーWINでなければならないと思うことで自らを救いたがる。卑近な例で言えば、万引きして怒られた子どもが「僕にだって良いところはある」と心で叫んだり、テストで0点をとってしまった子どもが「先生は僕を嫌ってる」とか思うことと同じである。ちょっと違うか……。いや、たぶん大して違わんね。私は、学問がこういう類のくだらない事象を捨象するしかないとしたら、それは法学や人間科学の演習における問題設定を超えることはないと思う。その際、学者も、現実の複雑さに対して、上の様な題目を唱え続けて相対的に自らの優位性を保つことに汲々となるに決まっている。つまりかつてマルクス主義やフェミニズムが演じたことを反復するに違いない。にもかかわらず、ある種のリベラリズムがいまだにマルクス主義やフェミニズムといったイデオロギーを敵視しているのは(上の本の場合は「道徳」ね)、現実をそういう全体主義的「1」にしとかないと、自分の主張が民主的な「2」にならないからである。その場合、学者は現実の「3」以上にぶつかって錯乱する。いや、錯乱すればまだましである。「2」で「1」を負かすために、同調圧力を使うという手段に出る。すなわち、数の多さが大好きだっ。いま大学で行われていることはそんな極めて形式論理的なリベラル=ファシズム(笑)である。
ヤナーチェクはマルティヌーとともに好きな作曲家の一人です。オペラ「死者の家から」を一度観てみたい。「クロマティ高校入学案内」も愛読書。しかし、ここには入学したくない。