近藤ようこの『遠くにありて』。近藤氏のことである、「僕はいらないの?」とか「あなたと一緒になりたい。さもなくばみんな死ね」とか、すぐ極論に走って相手を脅迫するようなあり方を描くことからは遠く離れている。現実は、この作品に描かれているように、人間に対してあれかこれかという選択を純粋に要求することは出来ず、なぜなら、そもそも社会があれかこれかといった項の組み合わせで成立してないからである。だからといって、結婚か自立か、田舎か東京か、親か恋人か、といった対立観念が消滅するわけではない。そこらへんの事情を丹念にえがいている作品である。結末は、私には非常な理想主義に感じられた。そこにしか解決はなさそうだが、我々はこの作品が書かれた90年頃に較べてもその理想にたどり着けない体たらくになってしまっていると思われるからである。
東京にいったんは大学生として暮らしたあと、東京で編集者になる夢をもちながら親(高校の先生だった)のコネで地元の私立高校に就職し、高校の同級生と結婚しようとする主人公の女性は、最後にこう自分に語りかける。
まわり道して、私は帰る。
そして、新しい道を歩きはじめる。また、まわり道をするかもしれないけど──
それでもいいと、今は思う。
このせりふは、田舎に帰って高校教師をしたことや結婚に至る逡巡を「まわり道」であったが「無駄じゃなかった」と肯定してから後に吐かれる。二つの目の「まわり道」は、もしかしたら高校教師や結婚から逃れていくことを意味しているかもしないし、最後は「今は思う」と留保をつけた言い方になっている。このような表現は重要である。これを無理矢理、「田舎に帰れ」とか「夢を諦めて現実をみろ」とか「親を大切にしろ」というテーマにねじ伏せているのがいまの日本の精神状況である。これは、「田舎は滅びるべし」、「夢が一番」、「親は邪魔」といった極論を一度は本気で信じてしまったもの達がそれをひっくり返しているに過ぎない。
とはいえ、主人公にある程度の頭脳があったから上のような感慨にたどり着いたというわけではない。もちろん、その要素は大であるけれども。主人公がそういうことを思う必然的な条件が現実に存在していた事情を、丁寧に近藤氏は書き込んでいる。そもそも彼女は地元の田舎への嫌悪は愛着の裏返しだと信じ込んでいるため、田舎と東京はきちんと対立しているわけではなかった。また、例えば、父親の造形が重要である。主人公の父親は、コネで主人公を勝手に地元の高校に就職させてしまうわけだが、これが不正とは主人公には感じられない。父親の自己顕示はあったのかも知れないが、娘の能力を信頼してのことだったらしいし、娘の方も、父親を煙たがりながら、教員を天職だと言い切る父親のつよさを尊敬している。……これが、「東京でてもしょうがない。それだけの能力が娘にはないから」と父親が言いきったりした場合、あるいは娘の方も親の能力を本気で低く評価し、しかも親が実際にその程度である場合、確実にコネが悪と見えるはずである。要するに、一つの物事が多義性を孕んでいるような事態がなくなって、不正が、それを行った人物の程度の低さから導き出されるような「感じ」がしてしまうのではないか。我々が、いつ他人にハメられるかもしれないと思い、過剰に自分の夢やら自己の行動の一貫性に頑固になってしまっているのも、そんな「感じ」の為であろう。しかし、私は、よく言われるように、とりあえず人間の関係性を回復し、多く顔をつきあわせることでこういうお互いの不信感を払拭できるとは必ずしも思わない。あるいは、父親とか共同体の権威を高めればよいとも思わないし、「察しと思いやり」を強制すればいいとも思わない。なぜなら、我々のお互いの不信感は、近代化の過程を通じて、ずっとくすぶり続けていたのであり、それが貧困問題の軽減や親の権威の失墜で表面化しただけで、──すなわち、極言すれば、ひとしなみに「国民」となったどんぐりがつばぜり合いが起こっているだけのような気がしないでもないからだ。結局は、愛情などという観念に幻惑されずに具体的な人間を捉える力があるかどうかという知性がない限りどうにもならん。主人公やその父親にはそれがあったから辛うじて事態は好転したのだ。そうでなければ、相変わらず我々は制度や共同体を強固に構築して安全に暮らすことしか考えなくなる。しかし、そうすれば更に知性は劣化するだけで、いたちごっこである。
……であるが故に、私は、事態は絶望的であると思っている。