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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

身毒丸

2011-08-19 09:17:50 | 漫画など


どこにも逃げ場がないお話。すごいな……。姫さまがアイデンティティに悩んで鏡を見ているところは、あんまりよくないと思ったが、その後の展開であんまり気にならなくなってしまった。すごいね。近藤氏が折口信夫をどれだけ勉強したのかは分からないが、じゅうぶん折口の妖しい感じが出ている……と思った。

母親は彼方から子どもの泣き声を聞く

2011-08-19 05:34:12 | 映画


子ども向けの映画、例えば、近年で言えば「トランスフォーマー」とか「サンダーバード」(ちょっと古いかな。評判の悪かった実写版。)を観る時に気をつけていることがある。

これらは殆ど教育映画である。子どもにとっては思春期では親に対してどういう態度で接したらいいか、親にとっては子どもにどう接したらいいかなど、案外具体的なところ巡って展開されている。「トランスフォーマー」だったら、子どもは使命(仕事?かな)をきちんと自覚して行動することが大人になることであり、親はそれをつかず離れず見守れ、ということだろう。「サンダーバード」なら、子どもは思春期になったら自己実現ではなく仲間と協力することを学ぶべきであり、親はきちんと子どもと話し子どもが大人の仕事ををやり遂げたら「大人」として扱え、ということであろう。まあ、いいんでない?子どもにそれなりの能力があればの話だが……

それで、私が気をつけて見ているところなのだが、いわゆる「しりぬぐい」というか「お膳立て」というか「縁の下」役をどうえがいているか、である。かっこよく兵器を操縦している連中を支える人々がいる。それは必ずしも兵器の整備係や執事のことを言っているのではない。例えば、部屋の掃除とか洗濯とか鉛筆買ってきたり鍵を開けたり閉めたり飯を作ったり片づけたりとか、……もっといえば、仕切り屋の発言の尻ぬぐいをする役割とか、そんなことである。上のような映画の場合、自立した個人が協力するとか協働するとか、そんなイメージなのだが、このイメージは懇親会の「俺たち優秀グループ」の空疎な会話のようなものである。彼らには誰が自分の尻ぬぐいをしているのか全く見えないのだ。例えば、研究者達はみな自分が王様気分でいるので大変だ、と思うのは、その実、王様気分でいるタイプの自意識に過ぎない。実際は、現に尻ぬぐい的な役割を買って出ている人達はいるし、「自分は結構尻ぬぐいをさせられている」と思っている人にも、本当に尻ぬぐいしている人が目に映っているかどうかはあやしいのである。私の見たところ、うまくいかなくなる集団というのは、そんな死角が多い人間が勝手に威張って、そのほかの人間達が生活のためにそれに我慢している場合が多いのではないかと思う。だからといって、人間の集団を、個人がひとしなみに評価されつつ行動する「協働」集団に出来ると思ったら間違いであろう。それは無理である。問題は死角に気づくことを頭の良さとして認めることだと思う。威張る役に適している人間はいるし、尻ぬぐいが得意な人間もいるし、ある程度そんな役割分担が集団のなかでできあがってしまうのは仕方がないのではないか。上手く回らなくなる場合というのは、そんな状況を認識せずに威張り役が過剰に威張ったり、尻ぬぐい役が過剰に尻ぬぐいをしたりといったことが続くことであり、また逆に、「協働」とか言って尻ぬぐい役を強制的に「ない」ことにしたり(この場合、確実に尻ぬぐい役を更に「尻ぬぐい役」に追い込むことである。)する場合である。

で、思うのは、「トランスフォーマー」にしても「サンダーバード」にしても、昔風に言えば「母親役」が非常に影が薄いというのは重要な気がする。(後者にはそもそも母親は居ない。)一つには、主人公のガキが思春期なので、ウンコを垂れ流したりものを吐き出したりするような人間未満ではない、したがってその世話をするような役が存在しなくてもいい、という事情がある。私は想像も出来ないし、全ての母親がというわけでもないだろうけれども──、実際、母親というのは、それを「役」としてこなす以上の精神で子どものことを考えているらしいのだ。天下国家の一部として子どものことを考える男どもとは全く次元が違う。私の母は、私が幼稚園で泣いていると家にいてもそれがすぐわかったそうである。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、そういうものなのではなかろうか。自立した個人が協力してとか組織のモチベーションを上げるための評価作りとかいう、体のいい組織論は、かかる母親のような存在を全く無視して発想されているところがあるのではなかろうか。我々は誰のおかげで人間になれたと思うのだ。このような母親的な存在のおかげではないか。原発被害の議論でも、「ただちに躯に影響はない」とか男が言うわけであるが、母親的な感覚でそれをきいてみるがいい。冗談じゃないぜ。私の周りにも母親で研究者で、という方がいるが、やはりこの人達はそんなことが分かっているように思えた。私もやっとそんなことに最近気づいた。間違っているかも知れない。