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近藤ようこ『ホライズンブルー』。
読んでいて気づいたが、私もこの数年、母親が主人公の小説を中心に論じてきたと分かった。昨年、芥川龍之介の「三つのなぜ」を論じていて、なぜこんなにテンションが上がらないんだろう、と考えていたが、そこに描かれているのが、「男」だからだ。私は男だから女の気持ちは分からないと自分では思っているが、「男」の気持ちはもっと分からないのである。私は中島敦とか堀辰雄とかがあまり好きではないが、対照的なこの二人がなんとなく「男」的だと思うからである。志賀直哉もそうだ。
美人で男に好かれる妹に嫉妬する姉が主人公であるが、幼少期から、母親に愛されていなかった。特に妹と較べて扱いが酷いのである。彼女は年下の男と結婚して子どもを生むが、実家に連れて行ったところ、母親は赤ん坊が彼女の「妹」に似ていると言った。そこから彼女の子どもに対する憎しみの日々が始まり、ほとんど虐待に近いことを始めてしまう。最後は、彼女の母親も自分の母親に可愛がられなかった過去を持っていたことが明かされる。……すなわち、愛されなかった怨恨がその子どもに向けられ引き継がれていってしまう物語だったのである。なぜ妹ではなく姉の方にそれが引き継がれたかと言えば、姉の方が母親の心を見透かしたような態度であった──自分と同質性が感じられたからだというのである。そして、主人公の子どもの場合は、自分の妹との同質性への認識が虐待へのきっかっけである。すなわち、この物語は物語といっても、私である/ない、といった、文字通りの自意識が人を超えて〈もの〉として伝わってしまい、人の幸不幸観を左右してしまう出来事の反復なのである。たぶん、かかる〈もの〉は我々の殆どが抱え込んでおり、単に幼児虐待の問題ではない。〈もの〉が幻想であろうと何であろうと我々はそこに容易に落ち込んでしまう。少なくとも、主人公の意識に関して我々はなんとなく「身に覚えがある」ような気がしてしまう程度には普遍性がある〈もの〉である。だからこそ、近藤氏の古典もののように、作者は「以上、悲惨な物語でした」と作品から降りることができず、このような〈もの〉に侵された人間の幸福とは何かという解決不可能な課題を引きずったまま作品を終えている。母親の告白を聞いた主人公は、自分の子どもと夫とやり直そうとする。しかし、彼女に会いに来た彼らは真っ黒に見える。この絵は印象的である。私は、主人公が最後の最後で、負の連鎖を断ち切るために子どもを殺すのではないかと思ったくらいである。
近藤氏は『アカシアの道』でもう一回このような話を展開しているらしいので、今度読んでみよう。
これは、女同士の戦いの話であったが、男と女が混じっている兄妹の場合はどうなんだろうな……この作品でも「男」は非常に影が薄かったんだけれども……。