近藤氏の作品は、瞬間湯沸かし器みたいなところがある。しかし真の沸騰は一回しかない。全てクライマックスみたいなものに我々は慣れているのだが、そんなマッサージみたいなものはそもそも思春期の妄想だ。近藤氏の作品はそんなものとは対極にあるような気がする。刹那があればよい人生もあるのではなかろうか。
……というのは冗談であるが、常に自分が必要とされていることになっていないとうじうじ言い出す奴が多いのは何故なのか。「こんな優秀なわたしをみてくれないのは何故」とか言いたげな奴である。知らんわ。で、自分が威張れない場所だと分かると「ここには飽きた。私のいるべき場所はここではない」とか言って移動したがる。どこに行っても同じだろう。……我々にはこんなところが少なからずあるが、言うまでもなく、これは自意識的というより処世術的である。先日内田樹氏がブログで、最近すぐ泣いたり怒ったりするやつがいるが、感情の抑制がきかないのではない、演技であれ本気であれ怒ったり泣いたりする奴を率先してケアしなければならないという共同体の習性を利用して、自分を目立たせる奴が増えているだけだ、……といったことを述べていたが、本当にそう思う。で、なんとなく存在感がある奴にかぎって「俺はいつでもキレるぜ」と自分で堂々と言うやつだけになってしまった。以前は、こういうタイプは只の馬鹿だったので無視すればよかったが、最近はそういうやつが余りに多く、つまり、そのなかに多様な人間が含まれるようになってしまったので、しょうがないから、馬鹿も有能もみんなでそんな態度をとりたがる。
私たちはただの人間という生き物であって、周りがいかに「群」や「世間」や「川の流れ」に見えたとしてもそれはただの幻想である。周りにもただの人間が居るだけである。世間を泳ぐ、と思っているうちに妙な処世術ばかり覚えてしまうのは、何故なのか。どうも、大人になる前の環境が余りに不幸であるような気がする。未来は自由にならない、親や友は棄てられない、自分も周りも大して違いはないはずである……等々の自己に対する絶望感をかなり早いうちから現代の人間は感じさせられているのではなかろうか。そんな感情を突破するには、一種のナルシスティックな馬鹿になるしかなかったのではなかろうか。そうでなければ自分が消えてしまいそうなのだ。……しかし、別に消えてもかまわないんでない?