★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

身近な猫は我々を好いてない

2011-08-13 03:53:12 | 思想
8月5日の日経で、吉本隆明が「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射能を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまったという点にある。燃料としてはけた違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えるとたいへんな危険を伴う。しかし発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは人類をやめろ、というのと同じです。」とか言っていた。前の記事でも書いた自意識過剰人間の一種がここにもいた。誰も人類が原発をやめるとか、人類が科学を推進してきた、とか思っちゃいねーよ。吉本氏は「人類」でも「科学者」でもないだろう。誰が何をどのように、という観点を抜いてこういうこと言ってもしょうがない。上の発言のなかのひとつのひとつの単語について、その内実を研究する慎重さを持つことが大切ではなかろうか。そうでなかったら「がんばれニッポン」と大してかわらん。

吉本氏の若い頃からの問題は、何かの理念に対して庶民の何かを対置して、その対立を揺るがすことには長けていても、理念の内実や庶民の内実をあまり分析できないという点であると思う。昔の左翼批判の時もそうだった。左翼の一部が放つアホなオーラを左翼全体に敷衍して考えてしまうのである。マルクス主義者自身と同じように、吉本氏も彼らが具体的な人間であることを議論の過程で忘れる傾向があったのではなかろうか。

吉本氏は次のようにも言っていた。

-戦中と比べると。

「あのころの東京は、人々も町中の印象も、どこか明るくて単純だった。戦争で気分が高揚していたせいもあったろうが、空襲で町がやられた後でも、皆が慌ただしく動き回っていた。
 今度の震災の後は、何か暗くて、このまま沈没して無くなってしまうんではないか、という気がした。元気もないし、もう、やりようがないよ、という人々が黙々と歩いている感じです。東北の沿岸の被害や原子力発電所の事故の影響も合わせれば、打撃から回復するのは、容易ではない」


そうかな?「戦時中の人々」などというものが存在していればそうだったかもしれないとは思うけど……。いやそんなことはない。絶望していた人々だってたくさんいたはずであるし、よし、ここで一儲けするぞと考えていた奴だって居るはずである。親が死んで絶望の底にいた人々が居る一方で親が死んでせいせいしたぜと考える奴だって居たはずなのだ。「どこか明るくて単純」だったのはたぶん吉本氏の方だろう。(ちなみに、吉本の言い方は、坂口安吾の「堕落論」などに描かれた、空襲がないとつまらないと言っていた人々の描写よりも貧弱である。)今度の震災の後だって、沈鬱になっていた人がいた一方で(これだって、みんなが自粛しているから自分も黙っておくか……という処世術を駆使している奴らがかなりいたしね)、昂奮してはしゃいでいる奴もかなりいたではないか。なぜそういう光景が吉本氏には見えないのか。人民の悲劇といった紋切り型を振り回す左翼に対する嫌味としては最早こういう発言は機能してないんじゃないのか?

「全体状況が暗くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できるものを書くとか、飼い猫に好かれるといった小さな満足感で、押し寄せる絶望感をやり過ごしている。公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、いちばん大切に生きることだろう」

こういう言い方が、読者のなかにいるであろう本当の被災者を想定していないところがそもそもまずいと思うけど、「ほとんど何も震災から影響を受けていないけど、絶望感だけはなんとなくあります」という読者に向けての発言だと言うことにしておく。しかし、まず「全体状況が暗い」とは何のことを言っているか分からん。全体状況と自分を分けるというのは、大本営発表にシンクロして騒いだり革命だと言って騒いだり復興だと言って騒いだりする馬鹿から身を引き離すという意味では必要なことだが、そんなのは自明の前提に過ぎず、にもかかわらず、氏の言う「公の問題」が生活に入ってくる時にはどうするかという智慧にまで全く届かないのである。だいたい、こういうプライベート重視(笑)は、戦時中だって実はマジョリティだったんじゃないの?吉本氏に言われるまでもなく、我々は身近なものしか相手にすることは出来ないし、それこそが一番常に深刻である。その深刻さから逃げ出すために、猫を可愛がったりするのではなかろうか。猫から好かれるというけど、猫はたぶん吉本氏を好いてないと思うぞ。常識的に考えて……。

刹那の人生とマッサージ人生

2011-08-13 02:21:00 | 漫画など


近藤氏の作品は、瞬間湯沸かし器みたいなところがある。しかし真の沸騰は一回しかない。全てクライマックスみたいなものに我々は慣れているのだが、そんなマッサージみたいなものはそもそも思春期の妄想だ。近藤氏の作品はそんなものとは対極にあるような気がする。刹那があればよい人生もあるのではなかろうか。

……というのは冗談であるが、常に自分が必要とされていることになっていないとうじうじ言い出す奴が多いのは何故なのか。「こんな優秀なわたしをみてくれないのは何故」とか言いたげな奴である。知らんわ。で、自分が威張れない場所だと分かると「ここには飽きた。私のいるべき場所はここではない」とか言って移動したがる。どこに行っても同じだろう。……我々にはこんなところが少なからずあるが、言うまでもなく、これは自意識的というより処世術的である。先日内田樹氏がブログで、最近すぐ泣いたり怒ったりするやつがいるが、感情の抑制がきかないのではない、演技であれ本気であれ怒ったり泣いたりする奴を率先してケアしなければならないという共同体の習性を利用して、自分を目立たせる奴が増えているだけだ、……といったことを述べていたが、本当にそう思う。で、なんとなく存在感がある奴にかぎって「俺はいつでもキレるぜ」と自分で堂々と言うやつだけになってしまった。以前は、こういうタイプは只の馬鹿だったので無視すればよかったが、最近はそういうやつが余りに多く、つまり、そのなかに多様な人間が含まれるようになってしまったので、しょうがないから、馬鹿も有能もみんなでそんな態度をとりたがる。

私たちはただの人間という生き物であって、周りがいかに「群」や「世間」や「川の流れ」に見えたとしてもそれはただの幻想である。周りにもただの人間が居るだけである。世間を泳ぐ、と思っているうちに妙な処世術ばかり覚えてしまうのは、何故なのか。どうも、大人になる前の環境が余りに不幸であるような気がする。未来は自由にならない、親や友は棄てられない、自分も周りも大して違いはないはずである……等々の自己に対する絶望感をかなり早いうちから現代の人間は感じさせられているのではなかろうか。そんな感情を突破するには、一種のナルシスティックな馬鹿になるしかなかったのではなかろうか。そうでなければ自分が消えてしまいそうなのだ。……しかし、別に消えてもかまわないんでない?