
やけくそで借りてきた「原潜 VS UFO /海底大作戦」(The Atomic Submarine, 米 1959)を観た。地球を植民地にしようとする上のような宇宙人がUFOで北極海に潜んでいたので、アメリカで目下売り出し中の原子力潜水艦でそれをやっつける話。UFOのなかには、でっかい眼球みたいなものがあって、…なんだかよくわからんが、とにかく開いた丸窓から人間が覗くと、珊瑚と蛸と人間の目が一緒になったような奴がそこにいた。彼は自分の容姿を気にしているのか、「我々にとっては君たちが醜い、君たちは我々が醜い。主観の相違だよ、ムハハ」などと、――主観という言葉を使ってみたかっただけの思春期丸出しの意見をいうので、私は、「こいつは×していいかな」とつい思ってしまったよ。かつて、アメリカが日本に対して思ったことであろう。
物語は、原潜を作った父と平和運動をする息子の対立と、現場の軍人との対立みたいなものが描かれている。で、その対立をなかったかのようにしてしまうのが、宇宙人という外敵である。どうみても、原子力関係の開発をごり押しするために宇宙人が持ち出されるという、国策映画以外の何物でもない。しかしそれが笑えないのは、このようなやり方は、言うまでもなくそれは日本の特撮番組にまで影を落としているからである。侵略してくる宇宙人はいまのところいない。現実にいるのは、アメリカ人とか日本人とかロシア人とか、馬鹿な上司とか、自意識過剰の部下とか、隣の奥さんとか、である。SFが戦後流行るのはいろいろな理由があるわけであるが、人を殺したり戦争をやる理由が本当に見つからなくなってしまったというのが大きい。で、宇宙人なら、と現実逃避したのだ。しかるに、物語のなかで宇宙人を出してみたらやっぱりしゃべらなきゃいかんのでしゃべらせてみたら、人間そっくりである(当然である)。而して、いざとなりゃ容姿の相違、主観の相違で違いを明らかにするしかなかったのであろう。この後、昨日観た糞映画のように、宇宙人とも仲良くなれる式の映画も続々と現れるわけだが、根本的に現実逃避なんだからしょうがない。必要なのは単なるリアリズムだと思う。しかしそんなことは小説家ぐらいにしか耐えられない。