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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

容姿の相違、主観の相違

2011-08-16 22:58:14 | 映画


やけくそで借りてきた「原潜 VS UFO /海底大作戦」(The Atomic Submarine, 米 1959)を観た。地球を植民地にしようとする上のような宇宙人がUFOで北極海に潜んでいたので、アメリカで目下売り出し中の原子力潜水艦でそれをやっつける話。UFOのなかには、でっかい眼球みたいなものがあって、…なんだかよくわからんが、とにかく開いた丸窓から人間が覗くと、珊瑚と蛸と人間の目が一緒になったような奴がそこにいた。彼は自分の容姿を気にしているのか、「我々にとっては君たちが醜い、君たちは我々が醜い。主観の相違だよ、ムハハ」などと、――主観という言葉を使ってみたかっただけの思春期丸出しの意見をいうので、私は、「こいつは×していいかな」とつい思ってしまったよ。かつて、アメリカが日本に対して思ったことであろう。

物語は、原潜を作った父と平和運動をする息子の対立と、現場の軍人との対立みたいなものが描かれている。で、その対立をなかったかのようにしてしまうのが、宇宙人という外敵である。どうみても、原子力関係の開発をごり押しするために宇宙人が持ち出されるという、国策映画以外の何物でもない。しかしそれが笑えないのは、このようなやり方は、言うまでもなくそれは日本の特撮番組にまで影を落としているからである。侵略してくる宇宙人はいまのところいない。現実にいるのは、アメリカ人とか日本人とかロシア人とか、馬鹿な上司とか、自意識過剰の部下とか、隣の奥さんとか、である。SFが戦後流行るのはいろいろな理由があるわけであるが、人を殺したり戦争をやる理由が本当に見つからなくなってしまったというのが大きい。で、宇宙人なら、と現実逃避したのだ。しかるに、物語のなかで宇宙人を出してみたらやっぱりしゃべらなきゃいかんのでしゃべらせてみたら、人間そっくりである(当然である)。而して、いざとなりゃ容姿の相違、主観の相違で違いを明らかにするしかなかったのであろう。この後、昨日観た糞映画のように、宇宙人とも仲良くなれる式の映画も続々と現れるわけだが、根本的に現実逃避なんだからしょうがない。必要なのは単なるリアリズムだと思う。しかしそんなことは小説家ぐらいにしか耐えられない。

人間・おぼえていますか

2011-08-16 06:41:29 | 映画


安丸良夫・喜安朗編の『戦後知の可能性』を読んでいたらむしゃくしゃしてきたので、適当に借りてきた『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』とゆーアニメーション映画を観る。映画が作られたのは昭和59年、私の人生の中では、阪神の暗黒時代の更に上を行く最悪の時代である。『構造と力』が前年に出て、中学生の私も手にとった記憶がある。何が書いているのかさっぱりだったが、著者がもう世の中どうしようもない、と嘆いていることだけは分かった。80年代をポストモダンの思想家に代表させるなんてとんでもない。彼らは戦前の旧左翼が消滅しつつある時になぜ我々はかくもちんけになってしまったのかと言っていたと思う。あの頃は、戦前戦後の繊細な経験が粗雑な言動によって踏み荒らされていった時代だ。私は90年代以降を80年代への反動として理解する方向性には疑問を持つ。

で、その映画なのであるが、まさに戦後のアニメーションのある種の寄せ集め集大成という感じである。通説によればこのあたりから制作者側にオタクがいて、作品が全体として二次製作じみてくる。もっとも手塚やそれ以前だって二次製作的な性格は濃厚なわけだが、このあたりから明らかにその性格の匂いが違う。物語の設定だって、孤児、三角関係、美少女、巨大ロボット、巨人の敵、創世記などの要素はプロレタリア文学やらモダニズムの昔からあったものだが何か違う。テーマは一言で言えば、愛は文化だよ、である。これだって抽象としては以前からあった。おそらく、これらの要素が物語の中でなぜ存在しなければならないのか、がまったく説かれないし説く気もなさそうだ、しかも説いているつもりなのかも知れないと感じられるから妙なのである。本当は、この、理由を説かないにもかかわらず説いてますという態度に出る、というあり方は、モダニズムの時代からあったんで、その飽和点がこんな作品なのかも知れない。実際、この作品における人間の描かれ方はおままごとレベル、お笑いぐさのレベルであるが、実際人間はこんな非人間的なレベルでも観念として所有できるし下手すると涙を流すことも出来るのである。ここまで来ると余りに酷いとは思うが、人間は案外非人間的だったという発見がモダニズムの一つの意義であったので……しかたがない。そもそもロボットもそんな事情の表象であるという側面がもともとあったと思う。たぶん、このようなアニメーション以降、オタクたちは反省し始め、「自分はオタク(つまり人間じゃなかった)が、人間とはなんだろう」という問いによって、成熟しようとしている。でも、問い以前に単なる人間なんだよな……。そこを回避していてもしょうがない。人間は文化をつくるが、文化は人間ではないという自明の事実を思い出す必要がある。以前、大正期以降、価値の最上段に君臨する「文化」という言葉がいかに我々の社会を汚染しているか論文で示唆したことがあるが、私の言っていることも一部正しかったと思ったね。

遺伝子操作で男と女がそれぞれ独自に生殖できるにようになった人達がいて、それをつくったひとたちは現人類の創造主でもある。で、その男族・女族・現人類が三つどもえの戦争を行うが、現人類のある元家出少女アイドルが「愛・おぼえていますか」というその元人類が遺した歌を歌ったら、みんな仲良しになってしまったでござる、つまり愛は「文化」です、という筋である。しかもその「愛は文化」的なテーマを途中から男族の連中が解説してくれるのだ。……書いていて、パソコンをたたき壊したくなってきたが、そんな話だ。昔このアニメーションを観て、しかもそろそろ管理職の歳になって世の中動かす立場になりつつある方々に、夢から覚めるために言っておく。

愛は「文化」に非ず。どちらかといえば生殖の化学的反応である。「文化」は戦争の方だ。この作品でも戦争の描写の方が遙かに出来がいいじゃねえか。さっさと「文化」とやらを棄てて人間に帰れ。