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以前、父が読んだと言っていたような気がするのだが、この本には「帰郷」という話があって、私の育った家の傍が舞台なのである。小学校の担任であった、牛丸仁先生が最近、鈴鹿で連続的に講演をしていて(http://www.scs-3.org/news/news1_220.html)、そのなかでも触れていたので、ちょっと読んでみた。主人公の宇之吉は木曽福島八沢の元漆器職人。(私の先祖と同職だ。もしかして私のご先祖と知り合いか?もしかしてご先祖本人だったりしてな……)渡世人となった彼が死ぬ前に帰郷し、思いがけず出会った自分の娘のために人生最後のチャンバラをやらかすのが八沢橋の上だ。私の育った目と鼻の先だ。
つまりここ
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宇之吉になったつもりで川を見下ろすと
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大学の時にこれ読んでたわ……
その時の感想は忘れたが、私は悪人正機という考え方があまり好きではなかったので、主人公の渡世人・宇之吉──とにかく数限りない人を切ってきた人物である──が美濃で死病に冒されのたれ死にしかけているときに突然郷里の木曽福島に帰ろうという気になったことが解せなかった。しかし今回読んでみたら、宇之吉が「その気」になる場面こそ作者が全力を傾けて慎重に描写していることが分かって私は自分の若気の至りを恥じた。この小説に限らないが、藤沢周平の描く、男女や親子の心理的なやりとり──所謂「義理人情」的な部分に目を奪われてはならない。問題は何故そうなったか分からない部分をどうえがいているかである。以下は私の即席の解釈……
八沢橋の傍で意地悪されそうになっていた娘(お秋)を救った若き日の宇之吉は、なんとなくその娘と出来てしまったのだが、その時生まれたのが、帰郷した宇之吉が出会った娘だった。母親は遙か昔に死んでいた。宇之吉はお秋と関わったあとすぐに江戸に出てしまったので知らなかっただけだ。彼は江戸で出会った女に頼まれて人を切った。その女の亭主である。ここから彼の人切り人生が始まったわけだが、その「無駄な人生」の前に「清明な部分」があることに美濃である風景を見ていて思い当たる。その風景を求めて八沢に帰郷するわけであった。しかし、彼が郷里でしたことといえば、また女(今度は娘だけど)の為に人を切るということだった。最初の殺人と違うのは、意地悪されそうになっている娘を自主的に助けるという、人切りになる前の八沢橋の出来事と同じだということだ。宇之吉は首尾良くやり遂げる。再び旅に出ようとする宇之吉に娘が「行ってどっかで死んじまえ」と言うが、そこで彼は彼女が「ぴったりよりそってきていることを感じ」る。なぜかといえば、最初の殺人を命じた女に一緒に死んでおくれと傷を負わされたことがあったからだ。すなわち、人を殺すことが彼が愛する人に従って生きることだったとすれば、自分が死ぬことも愛する人に従うことだったはずだから、彼は娘に「死んじまえ」と言われることは一番の幸福だったのかもしれなかった。人のために殺し、殺される、宇之吉の人生はこのサイクルで幸か不幸か閉じようとしている。ただし、死は死であり苦しみ以外の何物でもないし、彼が人切りであり最早人間ではなくなっていた(彼が人を切る時には眼が青白く光っていたそうである……)ことに変わりはない。故に最後の一文は「地獄に向かっているようでもあった。」ということになる。
私は、このようなドラマは物語に過ぎないと思う。宇之吉が、地獄に向かわず女のために人を殺さずにいるのも現実だと思う。しかしそんな現実が物語に見えてくることがある。藤沢周平はそんな末期の目を持った人だと思う。時代物を書いていたこともそのことと関係があるね、たぶん。