
齊藤昇氏の訳で「リップ・ヴァン・ウィンクル」を読み直したら、全然記憶と違っていたのでびっくりしたのだが、わたくしが昔読んだのは森鷗外の「新浦島」であった。同じ話である。――それにしても、これは日本の浦島と違って、未来の故郷に飛んでしまった老人がたどり着いたのは、小言で責め立てる妻が死去して、美しく成長した娘だけがいる世界であり、しかもイギリスの支配から独立したアメリカであった。彼がたどり着いた現実からみれば、本当の自分が生きていた過去の現実の方が悪夢なのである。
考えてみると、日本の浦島は、一気に老人にならないと居場所がないほど孤立してしまうわけであって、世代は違うし、世の中の冷たさは相変わらずで、という未来はろくなものではない絶望がひどいお話である。だから竜宮城の刹那の楽しみには時を忘れてしまっていたのであろう。浦島ははじめから何が起きているか本当は知っているとみてよいのではなかろうか。われわれもそうである。
梶芽衣子主演の「修羅雪姫」というのが好きだが、北米版のDVDがよかった。
「白雪姫」も恐ろしい話ではあるのだが、「修羅雪姫」は、主人公の女の子は生まれる間から修羅の道を歩いていた。母も自分の未来も地獄なのである。これに比べると、この話のパロディである「キル・ビル」なんかすごく前向きな話である。「修羅雪姫」の第二作目の最後のシーンは神社の境内であった。同じ時間から逃れられない日本の運命を表現しているようだった。
そういえば、昨日うつらうつらしていたら、アランドロンの「復讐のビッグガン」なんかが、記憶の底からよみがえってきたが、これも、娘も愛人も敵も死んでアランドロンだけが生き残るいやな結末なのだが、最後に妙に明るく、娘か愛人か知らないが――女子とアランドロンが海で戯れているシーンで終わる。バックで朗々と歌声を響かせているのは、アランドロン。ここには、ただのアイドル映画ではない何かがある――ような気がした。