★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

定木神社を訪ねる(香川の神社158)

2017-12-23 23:24:37 | 神社仏閣
三宝さんこと、定木神社は飯田町。



あやうく見落とすところであった。



「三寶社」とあり。鳥居は元治元年九月のもの。



「紀念」の碑あり。

『香川県神社誌』に紹介されている由緒とだいたい内容は同じように思われたが……。すこしづつ違っているようだった。『神社誌』によると――、ここの地は昔から古墳だったが、天保三年に向山八百蔵なるものが隣地を耕してその塚の石を溝の踏み台にしたところ、急に痛がりだし危篤状態に。氏神社僧に神卜を頼んだら、それは「御年神」を穢した咎めであるとでた。びっくりした人々がその石をみてみると神像が描いてあったという。

古墳の石だもの……、そんなこともあるわいな

ともかく、村人は驚いて小祠を建てたというのである。



本殿。





村の人も驚いたんだろうねえ……

茶臼塚の小祠を訪ねる(香川の神社157)

2017-12-23 23:20:50 | 神社仏閣
茶臼塚は飯田町。古宮社の東。ここらの城主、飯田氏を祀っているらしい。



平成六年に建てられたものである。傍らに「飯田城」の案内板あり。茶臼塚の説明の所はなぜかペンキで消されていた……

「飯田城は、定木に所在していたというが、その遺構を確認することはできない。飯田城の城主で飯田主水正は、貞治元年(正平十七、1362)に細川頼之が讃岐の宇多津に上陸した時、一宮の大宮司らと共に馳せ参じて陣に入った。その後も、頼之に従って伊予の河野氏討伐に加わっている。」

すばやいっ

「永正五年(1508)には飯田右衛門督が香西氏に従って山田郡の三谷城攻めに参加した。また、天正十年(1582)、土佐の長宗我部元親が香西氏を攻めた時には、香西氏にくみして伊勢の馬場で奮戦するなど、その重鎮としての働きをしている。」

がんばれっ

「天正十五年(1587)、生駒親正が讃岐の領主になった時には飯田伝右衛門が城主で、200石の禄で召し抱えられている。」

がんばった!