母親が連れさられる夢や妄想を抱くのは、就学前ぐらいの子どもの常ではないかと思っていたのであるが、この映画では、母親が火星人に連れら去られる。それも「ママなんかいない方がいい」と憎まれ口を叩いてしまった後にである。ハリウッド映画というのは、すごく形式的な整合性に拘って物語が作られていることが多くて、この場合も、上のような自分の罪が、自分のがんばりだけではなく、赤の他人の助けがあってこそ解消されるという弁証法的な作りになっている。母親が火星で死にかけたときに、主人公の子どもはどうすることもできない。しかし、同じように母親を連れ去れたことのあるオデブな青年?中年の男と仲良くしてたおかげで、彼が助けにきてくれる。
このオデブさんや火星人がある程度不快な姿に描かれているのは意図的であり、主人公の子どもは、彼らに自分の姿を見たにちがいない。オデブさんは、自分の未来の姿なわけだし、火星人はお互い不快なら会わないことにしようと決めて男女を棲み分けている種族であって、主人公がわがままなまま大人になったらこうなるというわけである。
最後の場面で、オデブさんと女火星人が抱き合っているのをみて、主人公が「おええー」と不快感を表し、それを「だめよ」と母親が窘める場面があるのは、観客に「テーマは不快さの評価ですよ」とだめを押しているのである。
ただ、表向きは「家族愛」のありがたさということになっているから、ちょっとわかりにくかったことは確かだ。案の定、大コケしたことで有名な作品なのである。
ご飯を食べながら、NHK特集の、家出少女3万人、とかいう番組をみた。SNSのせいにしていた感があって、あれであった。われわれは、そもそも青少年たちのトラウマや心の闇などという問題設定自体を仮象であると見なした方がよい。試しに尾崎紅葉の「心の闇」や二葉亭四迷の「浮雲」を読み返してみれば、『心理』などというのものが観念であることが明らかだ。無論、教育者があまりにそう思いすぎることは危険であるが……。家庭の修羅は昔ながらの問題とはいえ、ちょっと最近は、ヒステリックに心の問題が云々されすぎている。そんなもん、はっきり分かるもんじゃなし。家族が円満なのがいいことかどうかだって本当は分からない訳である。
それより、イスラエルの問題とかの方が、重大ではないだろうか……。