★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

生徒会の勝ち犬ども

2018-04-24 21:52:28 | 映画


先日、テレビで「帝一の國」という青春映画がやっていたので、ご飯を食べながら観たのである。原作は漫画らしいが、読んでない。

いまはやりの若手のイケメン俳優を集めて、「昭和時代」(←ここに多大な違和感があるが)の、ある海軍兵学校みたいなエリート男子校の生徒会の会長選挙を描いている。

いまどきの普通のど平民の場合、児童会や生徒会がたいして熱中できるものになっているとは思えない。勉強と違って、苦労の量が計算できないからだ。あと、同じことだが――目立つと苦労の量が計算できない。だから、いまどきの青春映画だと、部活や生徒会でがんばる理由は「居場所があった」とか「必要としてくれた」とかいう、赤ん坊のそれみたいな理由がくっつかないといけない。居場所や必要性があれば、苦労は一応0になるらしいのである。そんなもんでもなかろうが……。かくして、ちょっとのことで、傷ついた、絶対ゆるさん、とか言い出す。最近の政治の世界なんかもそうであるが、目標もイデオロギーもなにもかも失っているので、憲法改正とかセクハラ問題ごときで躓くべくして躓く。――政治が自意識的に運動するようになっているのだ。

いまは、グローバル世界という、ある意味、国民国家から悲しいことに落ちこぼれたような「ふつうの国民にとって使えなくて面白くないやつ」が活躍する余地があるが、まあ、そんなのはごく一部の話である。最近、グローバル人材にかぎって、仕事はできるがユーモアのセンスが全くなく、独創性だけはなさそうなヒューマニスト、どことなく過去の悲劇を推測させるタイプで、かつ案外歩くハラスメントみたいなやつが多いことに疑問をもっていたが、理由は案外簡単なことであった。ルサンチマンがのびのびと目標をもって活きてゆく世界がそこにしかないからだ。

しかし、この映画の高校では、生徒会長になると、自動的に東大?への推薦入学がゲットでき、しかもこの世界の政界には「生徒会閥」というものがあって、生徒会長になると総理への道が開けるらしいのだ。そんな高校があるかよ、と思うが、――わたくしは、アザブとかナダとかヒビヤみたいな高校のことは知らないので、案外リアリズムなのかもしれない。主人公たちは、その野心で会長選挙如きに命をかける羽目になっている。これが非常におもしろい。上のように、やる気なし、目立つ気もないが自意識過剰、みたいな人間たちより面白いのである。この高校で唯一、庶民の出身の男子が「はじめはこの高校の生徒会はクソだと思っていた。しかしみんな一生懸命だ」とか言っているのが物語のポイントである。言うまでもなく、この生徒会がほとんど政治家の政争なみに陰謀に満ちているにもかかわらず面白いのは、前述のように、生徒会長は未来の総理であり、すなわち、この高校の教職員より上位にあるからである。ありふれているが、生徒会というものは、その権力が教師の権力よりも強いときにのみ自治を展開できて面白いのである。昨今の、先生との協働とか、まったくクソ食らえとしか言いようがない。

わたくしも、児童会や生徒会活動というのはちょっとおもしろかった記憶がある。田舎だったせいか、ほんの少しではあるが、自治の匂いが残っていたからである。わたくしは人望もカリスマ性もないので、副会長とか副議長になることが多かったが、この「副」の役目の快感があることもなんとなく分かるのである。これが失われるのは、ボス(自治の長)が長ではなく本当は「犬」の場合である。犬の犬をやっていてもしょうがない。

「バカもん!お前は犬だ。犬になれ!そして勝ち犬になるのだ!」


主人公の父親が言うこの言葉がいいね。優れた政治家とか学者などは、自分をこのように考えているのではないだろうか。犬の主人は國や真実である。そして、本当は、人生に勝ちも負けもありゃあせぬ。

付記)一点、気になったのが、上の高校が男子校のせいもあるが、主人公をはじめとして女にはあまり興味がなさそうな感じで描かれていたことである。BL的な映像が多いことで客には受けたであろうが、現実はそこまであれではないわな……。