[…]いかに大夫、かくてのみあるをばいかゞ思ふ」と問へば、「いと苦しう侍れどいかゞは」とうちうつぶして居たれば、「あはれ」とうちいひいひて、「さらばともかくも、きむぢが心、出で給ひぬべくは、車寄せさせよ」といひも果てぬに、立ち走りて散りかひたる物ども唯取りに包み、袋に入るべきは入れて車どもに皆入れさせ、引きたるぜさうなども放ち、たてたる者ども、みしみしと取り拂ふ。ふり拂ふに、こゝちはあきれて、あれか人かにてあれば、人は目をくはせつつ、いとよくゑみて、まぼり居たるべし。
ボンクラは卑怯にもまたしても道綱を使い「こんな生活をどう思うかね」と聞き、道綱が「苦しいですが、仕方ありませぬ」と答えさせる。無論、父と母の板挟みに絶えるだけの根性はなし、かかる状況に、最終的には、体が反応してしまうことはボンクラにとって、コミュニケーション能力上自明である。我々は意識で動いているわけではなく、自然な働きに頭脳が逆らうとうつ病になってしまう。道綱は、母みたいに言語で自分を縛ることなどできない。で、いきなり、ばたばたみしみしと片付けを始めてしまうのである。蜻蛉さんは呆然ととする。してやったりのボンクラ。
菊池寛の「マスク」という作品は、たぶんスペイン風邪の頃のことを描いた作品である。主人公は太っていて内臓も心臓も「弱い」。医者にかかったら「脈が弱」かった。彼は「これほど弱いとは思わなかった」と思う。結局、それから流行性感冒がはやりだし、彼は死を覚悟する。だから彼は一生懸命うがいとかマスクをつけるなどする。やや流行がおさまっても彼はマスクを付け続ける。そのとき、「文明人としての勇気だ」とかなんとか言いつつ周りの目を撥ね付けていた。停車場で黒いマスクを付けている人なんかに出会ったときには、文明人として同士かと思う。しかし、四月以降、蒸し暑くなって彼はマスクを付けるのをやめてしまう。「四月も五月にもなって、まだ充分に感冒の脅威から、抜け切らないと云ふことが、堪らなく不愉快だった」。「時候の力」とかいいつつ、彼は自分を「勇気づける」。そんなとき日米野球が行われ、彼も観に行ったところ、ある若者が黒色のマスクを付けていてショックを受ける。「醜くさ」さえ感じる。彼は、感冒の脅威をいまさら想起させられた不快さ、自分がマスクを付けないようになったらマスクを付けている奴が不快に見えた「自己本位」を感じながら、こう思う。
「不快に思ったのは、強者に対する弱者の反感ではなかったか。[…]自分が世間や時候の手前、やり兼ねて居ることを、此の青年は勇敢にやって居るのだと思った。
彼が気にしているのは、一貫して自分の「弱さ」を克服して強くなることなのであり、しかも、それが体の「弱さ」に対する認識からはじまったことを、忘れているのかも知れない。なにしろ、暑いからマスクをとったことさえ忘れているのだ。彼を動かしているのは意識なのか、無意識なのか、それとも身体なのか?
インテリの中には、こういうことに無頓着なものがかなりおり、自らの「強さ」への欲望を対象化していない。これは危険である。しかし、だからといって、弱さにいなおるのは「文明人」でなくなることである。つい、この「文明人」に感情的な反発を覚えがちなのであるが、やはり野蛮なものは野蛮なのだ。