★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

不愉快今昔物語

2020-06-11 23:17:49 | 文学


また、つごもりの日ばかりに「何事かある。騒がしうてなむ。などか音をだに。つらし」など、果ては言はむことのなさやらむ、さかさまごとぞある。今日も、みづからは思ひかけられぬなめリと思へば、返りごとに、「御前申しこそ、御いとまのひまなかべか めれど、あいなけれ」とばかりものしつ。

「果ては言はむことのなさやらむ、さかさまごとぞある。」(しまいにゃ言うことがなくなったらしく、逆恨みである)と蜻蛉さんは案外元気である。思い切ってしまえば、あとはシャットアウトに特化してがんばることができるのだ。

追い詰められたら、案外やることはきまっているものである。

「陛下のお相手で暇なしでしょうが、わたしは不愉快です」と返す蜻蛉さんは、もはや天皇と自分を天秤にかけるレトリックを繰り出す。恐いものなしである。

職業として私は英語を教へてゐるから、そこに起る二重生活が不愉快で、しかもその不愉快を超越するのは全然物質的の問題だが、生憎それが現代の日本では当分解決されさうもない以上、永久に我々はこの不愉快な生存を続けて行く外はないと云ふ位な、甚平凡な事になつてしまひます。

――芥川龍之介「永久に不愉快な二重生活」


同じ不愉快でも、不快でもこちらは自分から動いてしまう不愉快である。我々は不愉快を自分のせいにするしかない仕組みに悩まされており、この二重性にとらわれないものならなんでも肯定してしまうという傾向にある。問題は、この二重生活に悩む人間が、それを解消すると、何に苦悩していいのか分からなくなるということである。芥川龍之介だってその傾きがあったのだから一般の人間なんかひとたまりもない。