★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

庵なども、浮きぬばかりに雨降りなどすれば

2020-06-25 23:44:11 | 文学


門出したる所は、めぐりなどもなくて、かりそめの茅屋の蔀などもなし。簾かけ、幕など引きたり。南ははるかに野の方見やらる。東、西は海近くていとおもしろし。夕霧たちわたりて、いみじうをかしければ、朝寝などもせず、方々見つつ、ここを立ちなむことも、あはれに悲しきに、同じ月の十五日、雨かきくらし降るに、境を出でて、下総の国のいかたといふ所に泊まりぬ。庵なども、浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐しくて寝も寝られず。野中に岡だちたる所に、ただ木ぞ三つ立てる。その日は、雨にぬれたる物ども干し、国に立ち遅れたる人々待つとて、そこに日を暮らしつ。

こういう素朴な場面が好きである。孝標女は、薬師仏の描写でもそうだが、モノの空間の位置に対する感覚が鋭いと思うのであった。でも、これは田舎もんの特徴かもしれない。わたくしも、家や橋がどこら辺にあるかを、自分の自我みたいに把握している気がする。予備校で名古屋に行ったときに戸惑ったのはそれで、モノの数がこちらの把握能力を超えている割には、モノの並び方は整然としてるのだ。これは外界と自我を分ける気がする。宮谷一彦などの劇画が、田舎の風景を、都会のビル群を描くように平面的に緻密に描写するけど、田舎の風景はああいう風に田舎者には見えないものだ。

年来愛読の上田秋成全集を取出して、『春雨物語』を久しぶりで読み始めた。その序に曰く。
  春雨今日幾日、静かにしておもしろ、れいの筆硯とう出たれど、思ひめぐらすに、いふべきこともなし、物語りざまのまねびは初事なり、されど己が 世の山賤めきたるには、何とか語りいでん、昔このごろの事ども、人に欺かれしを我また偽と知らで人を欺く、よしやよし、寓言語り続けて、書とおし 戴かする人もあればとて、物言ひ続くれば、猶春雨は降る降る。
雨。雨。雨。春雨から五月雨。五月雨から夕立、秋雨、時雨、冬の雨。仮令、晴天はなくとも、風静かにして雨滋き国は何処かにないであろうか。若しあれば、その国に移り住んで、僕は再び前世の蛙か田螺に還元る憧憬と勇気とを持ち合せている。


――辰野隆「雨の日」


本を読みすぎた人にもいろいろいて、私は、孝標女のものの見え方の方が好きだ。