★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

二人の心

2020-06-17 23:16:27 | 文学


さてれいのもの思ひは、この月も時々同じやうなり。二十日の程に「遠うものする人にとらせむ。この餌袋の內に袋結びて」とあれば、結ぶほどに出で來にたりや。「歌を一重袋に入れ給へ。こゝにいとなやましうて、え讀むまじ」とあれば、いとをかしうて「のたまへる物ある限り讀み入れて奉るをもしもりやうせむ。こと袋をぞ給はまし」とものしつ。二日ばかりありて、心ちのいと苦しうても、事久しければなむ、ひとへ袋といひたりしものを、わびてかくなむものしたりし。返しかうかうなどあまた書きつけて、「いとようさだめて給へ」とて、雨もよにあれば、少し情ある心ちして待ち見る。劣り優りは見ゆれど、さかしうことわらむも、あいなくてかうものしけり、
 うちとのみ風の心をよすめれば返しは吹くも劣るらむかし
とばかりぞものしける。


蜻蛉さんは、平安朝の和歌の天才の中でも指折りのひとであって、ボンクラはときどき和歌をかわりにつくってもらっていたのであろう。上の場面でも、遠方にゆくひとに送ろうと思うんで、餌袋の中の内袋にいっぱい歌を入れておいて、とか、お前は遠足の前にポケットに飴を入れておいてと頼む小学生かっ、と思うのであるが、――蜻蛉さんがプロ意識に目覚めて「別の袋を用意すれば、もっといっぱい詠んでやりますわ」といってしまった。で二日たったところ、「気分が悪いんだ、きみが手間取っているから、しかたくなくこのように詠んで送ったよ。返歌はこれだよ」とか言ってよこすボンクラ。「どちらが上手か決めてよ、蜻蛉さん」とまで言ってくる。

蜻蛉さんは、「まあ優劣についてはいろいろあるけど、偉そうに判定するのもなんなので、こう返してやった」というのだ。「東風(こち)ばかり風が味方して吹くみたいなんで、返しの風は劣っているようですわね。私があなたを贔屓する心がそうさせてんでしょうね」

わたくしは、いま悟った。

蜻蛉さんの性格はボンクラのあほさに匹敵する程イジワルだ。インテリ女に惚れられてちょっと困惑しているのに、ナニカアルたびに「あなた、頭が悪いわね」と言ってくるのだ。ボンクラも可愛そうかも知れない。

宇野浩二が昭和24年の『文藝春秋』で、「御前文学会議」という、昭和天皇に斎藤茂吉などと一緒にご進講したときの文章を書いている。そのなかの、斎藤茂吉との緊張関係が面白いが、後半、茂吉が、賀茂真淵の「古の世の歌は人の真心なり。後の世の歌は人の作為なり。」という言葉を呟いて、天皇の前で「独り『悦』に入つているやう」だったと述べている。

確かに、万葉を持ち上げた賀茂真淵は少し狂っているんだろうし、そこに勝手にシンクロしている茂吉もおかしいのであろうが、――時代は、安吾が堕落せよみたいなことを言い、太宰が「グッド・バイ」で女にぶん殴られる時代だ。確かにそこに「人の真心」みたいなものの模索があったことは確かだと思うのである。蜻蛉さんにもボンクラにも真心はある。むしろ作為的なのは源氏の方かも知れない。わたくしが、戦時下に源氏を訳した谷崎になにかひっかかりを覚えるのはそのせいである。