聞きつる年よりもいと小さう、いふかひなく幼げなり。近う呼び寄せて、「立て」とて立てたれば、丈四尺ばかりにて、髪は落ちたるにやあらむ、裾そぎたるここちして、丈に四寸ばかりぞ足らぬ。いとらうたげにて、頭つきをかしげにて、様体いとあてはかなり。見て、「あはれ、いとらうたげなめり。たが子ぞ。なほ言へ言へ」とあれば、恥なかめるを、さはれ、あらはしてむと思ひて、「さは、らうたしと見給ふや。きこえてむ」と言へば、まして責めらる。
「あなかしがまし。御子ぞかし」と言ふに、驚きて、「いかにいかに。いづれぞ」とあれど、とみに言はねば、「もし、ささの所にありと聞きしか」とあれば、「さなめり」とものするに、「いといみじきことかな。今ははふれうせにけむとこそ見しか。かうなるまで見ざりけることよ」とてうち泣かれぬ。この子もいかに思ふにかあらむ。うちうつびして泣きゐたり。見る人も、あはれに昔物語のやうなれば、みな泣きぬ。
井上ひさしの「あくる朝の蝉」なんかをつい思い出してしまったが、これにくらべていかにもな場面である。子どもをなんだと思ってやがる。我が国は、「家」意識がかなり希薄なくせに、先祖が誰であるかに異様に拘る人々がいるが、どうも――自分の父親が誰なのかわからない人間がなんやかんやと語る、そんな不幸な出来事が多く生起してきたのかもしれない。上の場面のように、子どもの口はふさがれていた場合が多いだろうから余計、大きく係累を語る人間がでてしまうわけである。芥川龍之介の「捨児」なんか、そういう語りが、大して攻撃的ではないが職業差別みたいなものを生んでいる心理を描いている。
昨日、「バックトゥーザフューチャー」というのをテレビで少し観た。考えてみると、未来にゆくのに政治的、理想主義的な興味があったウェルズのタイムマシンの主人公に比べてなんというちっちぇもの(自分の両親)を観に行ってしまったかという感じであるが、このころのアメリカは自分の出自(音楽などの文化をふくむ)を確かめなければ不安でしょうがなかったのである。タネンみたいなやつの天下になるのは予感としてあり、現にそうなったわけだ。だいたい、アメリカはその前からそんな大した国ではなかったではないか。短いスパンの過去への遡行は良くも悪くも自己満足でしかありえない。スピルバークはそのことに意識的だったろうが、作品を楽しむ人間はすぐスパンの存在を忘却しはじめる。
だから、わたくしは、日本だってオリンピック(すごい日本)を反復しようとする頓馬は問題外として、第二次大戦のダメな日本(敗戦)に遡行しても不十分であり、もっともっと先に遡行する必要があると思っているのである。
小西甚一は『古文の読解』で、設問は常に本文全体を背景とする、というようなことを言っていた。これはよい教えである。我々は周囲を勝手に範囲指定することばかり覚えている。蜻蛉さんの日記の欠点もたぶんおなじことで、場面の範囲設定に執心した結果、生み出される感情に限りが出ている。これを場面のバリエーションで打ち破ったのが『源氏物語』ではなかろうか。で、光源氏の光背には多くの場面がうごめく結果となった。