忌みの所になむ夜ごとに、と告ぐる人あれば、心安からであり経るに、月日は、さながら、「鬼やらひ来ぬる」とあれば、あさましあさましと思ひ果つるもいみじきに、人は、童・大人ともいはず、「儺やらふ儺やらふ」と騒ぎののしるを、われのみのどかにて見聞けば、ことしも心ちよげならむ所の限りせまほしげなるわざにぞ見えける。「雪なむ、いみじう降る」といふなり。年の終はりには、何事につけても、思ひ残さざりけむかし。
鬼は外、の行事は昔は年末に行われていた。なんだか今もそうした方がいいような気がする。宴会なんか、よけい胃がもたれて疲れがたまる。どうしていろいろと整理整頓すべき年末に、余計なものを背負うのか。思うに、正月休みも仕事を忘れるなみたいなプレッシャーをかけるために宴会をやってる気さえする。そして、上の蜻蛉さんのように、馬鹿騒ぎは疎外感を作り出す(心ちよげならむ所の限りせまほしげなるわざにぞ見えける)。鬼は外であればまだ運動性が見えてうきうきもしようが、宴会にはものすごく運動性というものがなく、鬼たちが鍋を囲んで穴を掘っているようである。いや、鍋が穴なのだ。
どうも私たちの文化の底には、鍋が大好きな精神というものがあって、我々はその中で煮られて喜んでいる気がする。縄文土器をみるとそんな風に思うねえ……
というのはともかく、蜻蛉さんが、この馬鹿騒ぎのあとに、雪の場面を置いているのはさすがである。水に流すというか、雪に流すというか、そんな風景につづいて、年の終わりには何事も思い残すことのないようにありたいものだったナアと思いが逆流する。
満潮になると河は膨れて逆流した。測候所のシグナルが平和な風速を示して塔の上へ昇っていった。海関の尖塔が夜霧の中で煙り始めた。突堤に積み上げられた樽の上で、苦力たちが湿って来た。鈍重な波のまにまに、破れた黒い帆が傾いてぎしぎし動き出した。白皙明敏な中古代の勇士のような顔をしている参木は、街を廻ってバンドまで帰って来た。波打際のベンチにはロシヤ人の疲れた春婦たちが並んでいた。彼女らの黙々とした瞳の前で、潮に逆らった舢舨の青いランプがはてしなく廻っている。
「あんた、急ぐの。」
――横光利一「上海」
横光は、外界を観ることに集中すべきだと思っていたと書いているけれども、もうすでにこれは内界のような気がする。外界を観ているという前提なんかは常に立てないものであろう。蜻蛉さんだったら、鬼が自分の内部にあるように。しかしまあ、その内部であり外部であるような分析をすればよいのかもしれず、これからはそんな時代が来るといいなとわたくしなんかは考えている。