けふは二十三日。まだ格子は上げぬ程に、在る人、起き始めて、妻戸おしあけて、「雪こそ降りたりけれ」といふ程に、鶯の初声したれど、ことしも、まいて心ちも老い過ぎて、例のかひなき独りごとも覚えざりけり。
兼家は大納言に昇進。蜻蛉さんは心が老いる。心が老いると「かひなき独りごと」、つまり歌もなんも出てこない。本当にそうであろう。身体というよりも心が老いたら我々は危機である。しかし、ボンクラは全く空気が読めてない。
又の日ばかり、「などか『いかに』といふまじき。よろこびのかひなくなむ」などあり。
次の日頃、あの人から「なんで『どれほどお喜びでしょうか』と言わないのです。昇進のかいもないですよ」と。
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心が老いた人が再び若返るのは如何にしてか。鈴木大拙の『神秘主義』の「マイスターエックハルトと仏教」には、最後に羅漢和尚がはじめて太陽が丸いことに気付いたという偈が引用されている。幼児の如くあればそれは見えない。心が老いたら何も見えない。幼児か老人かみたいなのが現世だとすれば、やはりそこから出ることが必要だったのかも知れない。