「こぞも試みむとていみじげにて詣でたりしに、石山の御心をまづ見果てゝ、春つ方さも物せむ。そもそもさまでやは。猶うくて命あらむ」など、心細うていはる。
袖ひづる時をだにこそなげきしか身さへ時雨のふりも行くかな
すべて世にふる事、かひなくあぢきなき心ちいとする頃なり。
袖いづる……の歌はなかなか良い歌だと私は思う。自分の体さえ時雨に濡れている、これが生きることがすべて「かひなくあぢきなき心ち」を導く。腹が減って雨にぬれた時に感じる絶望感は、雨から逃れればよいのだが、蜻蛉さんの雨は自分から常にわき出してしまうもので自分が亡くなってしまわなければなくならないのだ。もはや、ボンクラが冷たいことなんかはどうでもよく、蜻蛉さんは絶望の循環器みたいな存在になっているわけであった。
三、仕事着
勞働の種類及び態樣の、如何に變つて來たかは仕事着からも見て行かれる。それが又今日の普通のキモノと大いに變つて居る點でもある。
四、筒袖と卷袖
この以前にもう一つ廣袖の半袖があつた。それが筒となり次にモヂリとなつたのには、我々の生き方の發達が原因をなして居る。古い仕事着の形も現在はまだ根こそぎには無くなつて居ない。
五、袖無しと背負ひ
この古くからあつた衣服を、色々と工夫し改良して來た歴史は、細かく各地の例を比較して行くとやゝ明かになる。
――柳田國男「服装語彙分類案」
わたくし自身は半纏や甚兵衛が好きなので――なんとなくであるが、袖の形態が涙の行方に大いに関係あるような気がしているのである。袖の中は余りよく見えない。広がっている割には余り見えない。こんなところに涙が落ち込んで池をつくったりするわけであるから、そりゃ絶望や悲しみが得体の知れない感じになるのも分かる気がするのだ。