歸りて三日ばかりありて賀茂に詣でたり。雪風いふかたなう降りくらがりてわびしかりしに、風おこりて臥しなやみつるほどに、しもつきにもなりぬ。しはすも過ぎにけり。十五日なびあり。大夫の雜色のをのこどもなびすとて騷ぐを聞けば、やうやうゑひ過ぎて、「あなかまや」などいふ聲聞ゆる。をかしさに、やをら端の方に立ち出でゝ、見出したれば、月いとをかしかりけり。ひんがしざまにうち見やりたれば、山霞み渡りて、いとほのかに心すごし。柱により立ちて思はぬ山など思ひ立てれば、八月より絕えにし人はかなくてむつきにぞなりぬるかしと覺ゆるまゝに、淚ぞさくりもよゝにこぼるまで、
もろ聲に鳴くべきものを鶯はむつきともまだ知らずやあるらむ
とおぼえたり。
枕草子とはちがい、山霞みは、蜻蛉さんのこころを茫洋としたモノと化している。涙が自動機械のように出てくる。
「わたしと一緒に鳴いてくれる鶯は、春が来たことを知らないのだろう。じぶんは独りで泣くしかない」
ついに鶯や山の霞の方が動きと心があるみたいなことになっているわけだ。むろん、こんなことはありふれた出来事だ。
今日は、漱石の「第三夜」を90分解説したが――、「第三夜」は思っていたよりはるかに高度な内容だった。蜻蛉さんもはやく肩に闇の中で彼女自身をすべて照らし出す存在を見出すべきであった。蜻蛉さんは、自分よりもボンクラに主体を預けてしまってるのがいかん。「浮雲」の主人公でさえ、他者の感情の変数でありながら、上下運動をすることでかろうじて自分を保つ。やはりわたくしは、近代は必要だったとおもうのであった。