心ちも苦しければ、几帳へだててうち臥す所に、ここにある人ひやうと寄りきて言ふ。「撫子の種とらんとしはべりしかど、根もなくなりにけり。呉竹も一すぢ倒れてはべりし、つくろはせしかど」など言ふ。ただ今言はでもありぬべきことかなと思へば、いらへもせであるに、眠るかと思ひし人いとよく聞きつけて、この一つ車にて物しつる人の障子をへだててあるに、「聞い給ふや、ここにことあり。この世をそむきて家を出でて菩提を求むる人に、只今ここなる人々が言ふを聞けば、”撫子は撫で生したりや、呉竹は立てたりや”とは言ふ物か」と語れば、聞く人いみじう笑ふ。あさましうをかしけれど、露ばかり笑ふけしきも見せず。
ここでは、ボンクラが妹を笑わせ、蜻蛉さんも笑いをこらえているのだが、――つまりボンクラは気分を害している蜻蛉にもある程度面白いことを言ってしまえるセンスのある人物なのだが、こういう能力が、繊細である証拠とはならない。世の中には、空気が読めないという説明では説明がつかない、文脈が読めない、常に的が外れている人間というものがいるもので、それが甚だしい場合は「おバカ」で済むが、高学歴であったり結構な頭脳を備えているにもかかわらず、すべて言っていることが微妙に的外れで、それが常にそうなので、もしかしたら権力意識に基づくやっかいなものなのかどうかと疑われるが、どうもよくわからん微妙に判断が難しい人間というのがいて、これは非常にやっかいなのだ。わたくしの経験では、役場や大学にはこういう人間が結構いて、周りの人間にストレスを与えている。アイロニーがほとんど分からないのが特徴なので、問題がある場合にははっきり言わなければならないのだが、それは人格攻撃ととられる可能性がある。ハラスメントについての議論が深まるのはいいことだと思うが、このような場合の厄介さはほとんど問題になっていないように思われる。いま、首相をはじめ、なぜこういう人物がトップに立ってしまうのか、という社会問題がそこここで起こっているが、――要するに、上のような厄介さを気にしないタイプでないと、気がおかしくなってしまうから、という原因があるのだ。上の微妙なおかしな人のケアにまわる人間は、ケアだけで精一杯で組織全体を構想するところまでいかなくなってしまうのである。そこで登場するのが、別の意味でのおかしなタイプであり、微妙ではなく法外におかしなタイプなのである。これは法外なので、そのケア専門になって疲弊している人々にとっては「あいつはバカだな」というはっきりした態度でのぞめるから逆に楽なのだ。
ボンクラは果たして法外なのか微妙なのか。分からない。恋は蜻蛉さんの頭をおかしくさせているので、彼女に判断は難しくなっている。関わり合うのがいやでも恋がそれを邪魔する。
清少納言が、なでしこ、唐のは更なり大和もいとをかしといふた通り、ナデシコは野山に自生多いから大和撫子、石竹は支那から入たゆゑカラナデシコといふ。金源三の歌に「もろこしの唐くれなゐにさきにけり、わが日の本の大和撫子」。これ近代の秀歌なれば、定家卿が新勅撰集を編む時、我日本とはこの輩の口にすべきでない、この日本と直さば入れようといふと、一字でも直されてはいけない、且つ日本人はみな皇民なれば天子を我君といふ、この国に生れて我日本といはん事、其人を差別すべきでないといひ張つて、直さず入れられなんだとは余程えらい。無闇にデモクラなど説く輩、わが日本に生れてこんな故事に盲らで外国の受売りのみするは、片腹どころか両腹痛いとこゝに書くと、二た月も立たぬ内に、きつとわが物顔に「金源三の平等観」など題して書立つる者が出る筈、それは盲が窃盗を働らくのだ。
――南方熊楠「きのふけいふの草花」
確かなのは、こういう法外なことは微妙な人は書かない、ということだ。