★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

源氏の死体がない世界

2019-08-29 22:57:20 | 文学


この宮たちを、世人も、いとことに思ひきこえ、げに人にめでられむとなりたまへる御ありさまなれど、端が端にもおぼえたまはぬは、なほたぐひあらじと思ひきこえし心のなしにやありけむ。


薫や匂宮を世間の人は褒めるし、確かにそれほどの感じであるものの、源氏の大将の端の端にもひっかからんゴミクズのようにおもえるのは、子どもの頃、大将に憧れた心のせいでしょうか……。(意訳あり)

紅梅の大納言は、昔を懐かしむ。彼は柏木の弟である。人間、知らないことをいいことに価値のインフレを生きる。

朝鮮の友よ、見知らぬ多くの友よ、私の如き者を例外だと思って下さってはいけない。希くば精神に活きる私の多くの知友が、正義や情愛を慕う心に忠実である事を信じてほしい。若い日本の人々は、真理の王国を守護する事を決して忘れはしない。それらの人々は既に貴方がたの味方である。私たちは貴方がたを、近い友として理解する用意を欠かないであろう。貴方がたと私たちとの結合は真に自然そのものの意志であると私は想う。未来の文化は、結合された東洋に負う所が多いにちがいない。

――柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」(1920)


柳宗悦の見通しは甘すぎた。のみならず自然のとらえ方に於いて間違っていた。柳宗悦の溢れる善意にもかからず、それは多くの知らないことによる価値のインフレであったと思われる。「何事か不自然な力が、吾々を二つに裂いているのである」と彼は言う、これは明らかに知っていることを言わずに済ませる言い方であったが、――それは「不自然」でもなんでもない。自然な暴力を振るいたくてしょうがない輩がいたのだ。知ることは多くのことでなければならない。感情はそれから生じるものである。つまり感情というものは知性の一種であり不自然な情況からしか出てこない。UNE CHAROGNE (SPLEEN ET IDEAL-XXIX)に描かれているものこそ、隠された「戦争」であり「感情」である。

Rappelez-vous l'objet que nous vîmes, mon âme,
Ce beau matin d'été si doux:
Au détour d'un sentier une charogne infâme
Sur un lit semé de cailloux,

Les jambes en l'air, comme une femme lubrique,
Brulante et suant les poisons,
Ouvrait d'une facon nonchalante et cynique
Son venre plein d'exhalaisons.. . . . .

あの爽やかな夏の朝に、
恋人よ、われわれが
見たものを、思い出そう。
ある小道の曲がり角、敷き詰められた砂利に横たわった
醜い腐りはじめた獣の死骸が、

淫婦のように、足を空に拡げて
熱く毒の汗を発して 
無造作に、図太く、悪臭の
充満しているその腹部を広げていた


戦争は腐乱する肉と同じである。ボードレールはこの詩の末尾で、腐乱して無に帰った肉を横目に自分は詩人で恋愛の形態と本質を摑んでんるんだとか……と付け加えていたが、それは「感情の持ち主」と言い換えても良かった。どうせ「恋人」には通じなかったのであろうが……。それにしても、「源氏物語」は源氏の死体を見せないことで、だらだらと腐ってゆく人間関係を描き続けているのであった。紫式部はボードレールより底意地が悪い。


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