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人の聞くに恥づかしく、恥の限り言はれつる名を我と聞かれぬること、と思ふに、ただ今死ぬるものにもがなと、縫ひ物はしばしおしやりて、火の暗き方に向きて、いみじう泣けば、少将、あはれに、ことわりにて、いかにげに恥づかしと思ふらむと、われもうち泣きて、「しばし入りて臥したまへれ」とて、せめて引き入れたまひて、よろづに言ひ慰めたまふ。「落窪の君」とは、この人の名を言ひけるなりけり、わが言ひつること、いかに恥づかしと思ふらむと、いとほし。継母こそあらめ、中納言さへ憎く言ひつるかな、いといみじう思ひたるにこそあめれ、いかでよくて見せてしがな、と心のうちに思ほす。
復讐するは吾にあり。
「マッドドッグ」という青春・任侠映画をみたことがあるが、寄り添い恋愛モドキ映画より、よほどこういう物語のほうが寄り添い映画である。北野映画もそうだが、ともに死ぬみたいなものがテーマである。ヤクザ映画でよく、俺の骨を拾ってくれ、みたいなセリフがあるけど、こういうことを最近は右も左も言わずに病院で長生きしてしまうからだめなのであろう。「マッドドッグ」では、丁寧に、三人組の悪ガキの反抗する親がそれぞれ、ヤクザの親分、対立する漁業組合の頑固オヤジ、火葬場のオヤジという設定になっていて、前二者の親父たちが殺されたことでガキたちは親とは和解することになり、しかし逆に仇を討つためにお互いに殺し合い、と思いきや、いろいろあってお互いに和解してともに死ぬことになる。で、残された火葬場の息子が彼らを焼いてやるみたいな話である。彼らの人生とは、親への反発やヤクザの抗争、あるいは貫いた友情から導かれたものではかならずしもなく、なんだかそれらがパズルのパーツと化した宿命だったのである。しかしそれでも、なにゆえこんな宿命がドラマになってしまうかと言えば、そこにどことなく救いがあるからだ。これは悲劇のカタルシスではなく、もっと根本的なものであろう。ヤクザ映画にもいろいろあるけど、資本主義の絞りかすみたいな夢に向かって生きるのではなく、親のカタキとか兄弟のカタキみたいな宿命を生きてしまうすばらしさをテーマにしているのはけっこう意味があったのだ。この意味を仕事にある程度混ぜ込んで働いてしまったのが昭和の男どもであろう。いまや、学校教育でも社内教育でも、ほんと毒にも薬にもならん「夢に向かって生きる」みたいなことを復唱させられて、その夢のために人生を棄てて妥協しろと言われているわけであり、それにくらべればかなりましと言わざるを得ない。
たしかに、それがいずれ剥がれる脆い心理的抵抗であったことは無論である。いろんな芸術作品や娯楽作品から人生を学んだという人はわりとおおいけど、その人生からロボットやヤクザや狂人や不倫を引いて何が残っているか一度考えてみることは必要である。はたして我々が生きている生は人生であろうか。
戦後の「うたごえ」運動的なものも、考えてみると脆いものであった。そもそも歌声と内心からでてしまう「声」を錯視したところに問題がある。そういえば昔、「そこはもっと歌え」とピアノの先生に言われるので、ほんとに合唱団に入って歌ってばかりいたら、あるときピアノの先生に「そこは歌うな」と言われて、よくよく楽譜を見てみたらナルホドと思った経験があった。落窪物語だって、こころを歌ったと同時に、作為満々でつくったものであるところが我々に残された理由である。