この世はじまりて後、帝はまづ神の世七代をおきたてまつりて、神武天皇をはじめたてまつりて、当代まで六十八代にぞならせたまひにける。すべからくは、神武天皇をはじめたてまつりて、次々の帝の御次第を覚え申すべきなり。しかりと言へども、それはいと聞き耳遠ければ、ただ近きほどより申さむと思ふにはべり。文徳天皇と申す帝おはしましき。その帝よりこなた、今の帝まで十四代にぞならせたまひにける。世をかぞへはべれば、その帝、位につかせたまふ嘉祥三年庚午の年より、今年までは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくもかしこき君の御名を申すは、かたじけなくさぶらへども』とて、言ひつづけはべりし。
「かけまくもかしこき君の御名を申すは、かたじけなく」と言って居るけれども、もう何回か喋っているあとで言っても遅いわという感じであるが、老人だから許されるのであろうか。――というより、失言してからわしはいつも謝る体でいきますみたいな宣言ではなかろうかと思う。無論、文徳天皇からはじめるのは、外戚による摂関政治のはじまりだからであるから、ジジとしては、天皇の名前をいっているうちに、その何処の骨かも分からん外戚どもの闖入に心をいため。君の御名を申し上げるのはほんともったいなく、と思ってしまったのかもしれない。血筋よりも門(家)が別れることの恐ろしさ、という極めてありふれた現実的恐ろしさに対して、何をつっかえ棒に堪えたら良いのか、と思う我々の弱さをついてくる記述だ。
しかし、現在に到っては、家が別れることによる心の断絶よりも先に、すでに断絶が興っている。思うに、結局何回顔を合わせてるのか、みたいな現実には勝てないのである。正直、今年度に入って、浜辺美波と神木隆之介の顔を見る頻度は、細、うちの蛙、ゼミ生に次いで四位だ。下手すると、彼らは私の家族かも知れない。大学生なんかも、かつては、高校時代に教科書や参考書で人間の顔に飢えていたため、大学に積極的に遊んでいたのかもしれない。そういえば、先日高松市内に闖入した猪はどうなったのであろ。中央公園にいたらしいので、猪に容姿が似ている私とか緑の匂いにひかれわがキャンパスに闖入したりするかもしれん。いずれにせよ、――ここまで猪突猛進して大学に来る人も少なくなってきているのであった。しかしまあ、翻って考えれば、それは以上は人間「世界」が成り立っている都市の現象である。都市には猪突猛進的闖入が可能かも知れないが、いなかだと猪はただ近くを通行するだけだ。田舎もんが大学を素通りしたがるのもそれかもしれない。
田舎と言えば、わが故郷のように「猿の惑星」の実現がもうすでに実現しているところもある。われわれの都会の同世代は、ゴジラとかウルトラマンとか猿の惑星とかのもろもろの新作に大量に金を払わされてしまいにゃ年金をうちきられる。にっくき日本国家は言うまでもなく我々も惨めなものである。
ネットを見ると、ゴジラがそもそもフィクションであることを忘れ、「ゴジラ-1.0」がお涙ちょうだいだという批判が溢れかえっている。現実においては、お涙ちょうだいを否定するとロクなことはないのだ。例えばわたくしの授業の演習はむかし勝手に学生が泣いたりしてたという意味で結果的にお涙ちょうだいだったと言えるが、そうでなくなったら学生が単位ちょうだいになった。こういうのを現実というのである。