![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/ec/0daf0ee0f62244bea4b297344cd62c95.png)
で過ぎ去った。
ホモソーシャルと言われようとも、おれは安部公房の顔が好きだったのだが、朝ドラ女優に横恋慕されてたことが発覚して以来、人生は大概こんなもんだと思っている。
この前書庫でマクルーハンを瞥見したが、むかしかなり読み違えてたことが判明。というか全然意味を取り違えていた。
うどん。これがまた絶品。東京ではうどんなどは車夫馬丁が食うものだと思っているようで、そばを尊ぶ。福岡ではそばも食わせるがあまりうまくない。うどんが主体なのである。
――梅崎春生「暴力ぎらい」
もしかしたら、蕎麦よりもうどんを食べるようになって、頭の構造がかわったのであろうか。例えば、むかし、藤村の小説てなんであんなに読みにくかったんだろうと思う。いまはむしろよみやすい。むかし読んだ時には、猪子蓮太郎が高遠の出身であり、「懺悔録」が「心理の研究に基礎を置いた」ものだったみたいなことまで読み飛ばしていた。近代の叙述文体は、どの程度の情報の密度で時間を流して行くかでさえ一定でないから、案外こういうことも起こるのか。川田卓氏のベルクソン=小林秀雄論がとどいたのでよまなくては思っている。
対して、むかしとあまり変わらない読みが出てくるのが菊池寛である。藤村の地元から菊池寛の地元に移ってもわたしの頭の構造はあまりかわっていないようだ。菊池寛と林芙美子の戦後すぐの『日の出』に載った対談読むと、林芙美子が「判子は廃止しましょう」みたいな実質的でいいこと言っているのに対し、菊池寛がこれからは他民族を支配するようなことは世界でなくなる、朝鮮と台湾をなくしたけど、日本はその先駆をなしたんだ、――みたいなこと言ってて、なんだか楽しそうに見えるところがサスガ菊池寛、芥川龍之介はこいつを一発殴っておくべきだった。菊池寛の発言は戦前から、芥川とか安吾みたいなのが言いそうにないことを必ず言っててほんとあれである。林芙美子だって、上の対談で「これからは内輪だけで楽しく美しくなごやかになっていく」んだと言っててこういうのを自己欺瞞だと批判するだけでは片づかない。
昨日、学会の余波でフェミニズムの本を2冊読んだのに、林芙美子への見方だってそう変わった訳ではない。