
昨日寝る間際に三木清の「浪漫主義の擡頭」を読んだ。昔、これを読んだ時には、「日本浪曼派」の「宣言」の解釈が、あまりに暴力的にみえたので、最後まで読まなかったのである。しかし、今回読んでみたら、三木が日本浪曼派の人びとの気分を非常に良く捉えているように思えてきた。三木のいうように、ロマン派の基本的性格が、夢想というよりも反抗にあるというのは、どうもその通りのような気がするのである。にもかかわらず、いまだに反抗的人間を自称する連中が、「夢から覚めよ」と人びとを啓蒙する気満々なのは、どうもね……。しかし、三木もそんな論法に論文の最後で陥っていた。しかも、三木のいうところの「現実との連関」とか「ミュトスの限定」とかを、「ネオヒューマニズム」とか「行動ヒューマニズム」とか標語にしてしまうところも最悪だ。「浪漫的アイロニーが新しい倫理によって支配されて行動的になることが必要」って、人間どう転ぶかわからんじゃないか。ここで三木の頭に、具体的な人間の姿が浮かんでいなさそうなところが、とても変だと思う。要するに、三木という人は、ロマン派の反抗的気分は分かるが、「行動」というのはその反抗的気分の外部にあると思っているのではなかろうか。
とはいえ、三木の文章というのは、我々に議論を呼び起こす観点を幾つも提出する力をまだ持っているようである。加えて、この人の人間技とは思えない仕事量はいったい何事であろうか。……総じて人間的にも不思議な人だったのであろう、彼に関して、彼の哲学よりも、彼の人間性について面白い思い出話をする人が多いのは興味深い現象のように思われる。