★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

面接・分析

2025-01-20 23:14:11 | 文学


一群の「老大家」というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。
 家庭である。
 家庭のエゴイズムである。
 それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。


――太宰治「如是我聞」


別に太宰は文壇の大家とやらの面接試験を受けたわけではないし、ここでの面接はそういう試験のものではないが、面接というものの不愉快さを摘出している。そこでは、面接官は「自信の強さ」にあふれ、そこには「家庭」という神がいる。むろん「家庭」はいろんなものに置き換わるが、血のつながりはもちろん、そうれがなくても同質性をどことなくやりとりする(食事するなど)ことになる。ニーチェはどこかで、青少年を堕落させるためには、同質性のなかに放り込むだけで良い、と言っていた。――つまり、基本、面接というのは、あからさまな思考の強制でありパワハラ的なんであって、むかし、入学試験の面接が思想調査に使われて禁止されたこともあったけどいまは大丈夫、と言ってしまうひとはあまりに自分を善人だと思い込んでいるであろう。

コミュニケーション能力を判定するつもりで、結局はニコニコ能力判定みたいになってしまうような社会で、受験勉強をやめて本質的ななにものかをやろうとするのは無理だ。練られたペーパーテストをやったほうがまだましという事態が理解できた社会は、結局我々が本質的にバカだという現実を理解できたのである。結局、そういう総合判断ではなく、AだけどBはすごいみたいな一見分析的な思考は思い上がりしか生まない。それが、偏った判定を良きことと思い込む錯覚を壮大に生んでいる。

そういえば、我々の業界もどこかしら分析的に錯覚することばかり覚えている。私自身は、共通テストの「情報」はいらんという人にしか会ったことがないが、――それにしても、われわれの業界でも「情報」という概念を使ってものを書いてきた人びとはちょいと反省したほうがよい。

分析的な視点は、大概視野の狭さから来ていることが多い。少なくとも私の場合はそうだった。ディビット・リンチはほんとはちゃんといろいろ観たことないんだが、それが幸いすることもある。あまり一所懸命にみていると、「ツインピークス」とか普通に「神秘的半獣主義」みたいなものとしかおもえないことをつい忘れてしまうのである。

もっとも、わたくしもどこかしら自分を善人だと思い込んでいる。そういうものの目には、いろいろなものが歴史的必然に見えてくるものだ。演習の冒頭で、批評史の講義をやってると、小説史を語るときよりも、作品の内容と歴史的役割が解離しているような気になってくるが、それ自体がなにか認識のゆがみなのかもしれない。我々が持つ「理屈」って何だろうと思わざるを得ない。


最新の画像もっと見る