家へ入ると、通し庭の壁側に据ゑた小形の竈の前に小さく蹲んで、干菜でも煮るらしく、鍋の下を焚いてゐた母親が、
『帰つたか。お腹が減つたつたべアな?』
と、強ひて作つた様な笑顔を見せた。今が今まで我家の将来でも考へて、胸が塞つてゐたのであらう。
――石川啄木「足跡」
ワープロで文章を書いた初めてのものが卒業論文だった気がするが、そのときついた悪癖はなかなかぬけない。正直なところ最近、大学の教師として、卒業論文ぐらいまでは手書きで書いた方がよい気がしてきた。コピペ、散漫な思考、誤字脱字、締め切り直前まで何もせんなどの問題は、ワープロ執筆をやめてある程度は解決する。
もうさんざ言われているだろうけど、安部公房の手書き時代とワープロ時代というのは、気のせいか、文体もパッションも違う。衰えや体調のせいもあるだろうが、それだけとは思えない。「箱男」なんて、どこかしら手書き特有の紙片感がある。箱男は、箱の中でワープロを打たない。箱男は石川啄木とおなじく、人間の足跡をたどるように、言葉を書き付けるのである。