
小人用壯。君子用罔。貞厲。羝羊觸藩贏其角。
小人は君子と違って勢い余って傷つく。いわば籬につっこみ角を痛める羊のようなものだ。こういうことをいうだけでも、おとなしくかわゆいキリスト教の羊よりも群衆の時代を予期しているのかもしれん。正当で重厚な「つっこみ」が正しいとは限らない。創造性はそんなやりとりにはない。リテラシー教育やリテラシー的批判がたいがい役にたっていないのは当然なのである。
わたくしは、そういう意味で、何かを顚倒させたりして成り立っているフィクションにも疑問をもつタチである。例えば、「土佐日記」というのはなにかジェンダー的?な顚倒においてすごいことをやってるみたいな感じを勝手に持っていたが、そこにこそ創造性の平板さや作者の傲慢さがでてると思うし、最近はなんか微妙な気がしてきている。「源氏物語」が男光源氏の暴れっぷりを延々物語っていることに比べれば、土佐日記を男がかいていようと女がかいていようとどうでもいい感じがする。「夜半の寝覚め」を女が書いているのはわかるんだが。。
先日も書いたように、句点があると高圧的にみえるというのは、まあわたしの感覚としては句点があると高圧的にみえるというのはそこそこいいとこついているとは思うのである。まさに句点の導入には、高圧的な権力が必要だったからである。しかし、それが現在の文に句点があるからといって「上から目線」?があるというのは誤りである。だからこそ、逆に、それを顚倒させて日本語は本質的に「優しい」のだと主張することに意味はない。句点がついていようといまいと、日本語がやさしいかどうかは内容によるに決まっているのである。
むしろ、物事を顚倒させるんだったら、横溝正史にでてくる死体を、すべて米兵に置き換えて話をつくり変えて頂きたい。
戦後は、日本人の死体からの遁走であると同時に、米兵の死体からの遁走である。暴力は高橋和巳などの一部の作家をのぞけばひたすら内ゲバ的に展開する。そのきまじめな欺瞞を笑いによって和ませようとしたのが、「がきデカ」などのギャグであり、数多のギャグ的な野球漫画である。そういえば、清原氏が息子達から「アパッチ」と呼ばれていたらしいことを思い出す。清原氏は外国に行こうとしなかった。有り余る力を内に向けた。
そういえば、同じような機能は、戦後の青春映画にもあったのかも知れない。吉永小百合の相手だった浜田光夫さんというのは、戦後の生意気で素朴で垢抜けなくてかっこわるい若者を示しているようで、力こぶの入った、
現在のよのなかのいろいろを想起するに、――「源氏物語」や「栄華物語」、ひいては、もはや中性的な志向性、悪を措定しかかっている「反藤原氏」的な「大鏡」でさえ、フィクションとして受け取られていたかかなり怪しいと思う。平家物語はまあわかるんだが。仏教の観念はフィクションによる勘違いを暴走させない効果もあったかもしれない。「君子」たることは、文字通り顚倒や猪突猛進革命のアンチたることである。そして自身が転倒の対象になることをやめる、反革命であることである。