『特攻体験と戦後』という題名であるが、戦後についての記述は少ない。わたしにとっては、その戦後の話題の話題の代わりに、この対談の最後のあたりで、唐突に二人がキリスト教(カトリック)信者であることが話題になっていることが面白かった。これは、二人が希望したというより、対談の間に立っている「聞き手」の意向であったろうが、二人とも話したがっていない様子だ。
どうも、観念的には「死と生」といった哲学的な〈意味〉の問題として特攻体験を処理しようとしながら、二人にとってそれはある種の信仰の問題に感じられているのではなかろうか。しかし、思うに、特攻体験の持ったそれ自体の〈意味〉などあるはずがないし、信仰によって何らかの意味が出てくるとも思えない。たぶん、彼らが体験を「具体的」に分析出来ない理由は、私小説を書くことが、それが親戚や家族に迷惑をかけるが故に決死の覚悟が必要なのと同じである。宗教は、そんな抑圧の存在を抑圧してしまうのである。