★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

あまりにライトな

2025-01-13 22:38:41 | 文学


純粋なライト・ヴァースは、日本やイギリスのように、比較的最近まで文化が固定した国においてのみ成立する。洗練され、成熟し、固定した文化を持つのは、それ自体確かに素晴らしいことだ。だが本当の意味で、果してその国にとって、それは名誉なことだろうか。私にはそれが疑わしい。少なくとも当分の間、アメリカの詩に関しては、いわゆる serious light verse だけで、私には十分である。なぜなら純粋なライト・ヴァースのもつ「軽み」は、多くの場合、単なるおもしろおかしさで終ってしまう。 だが serious なライト・ヴァースは、それがもつまさにその「軽み」でもって、しばしばその内容を、かえって重く感じさせるからである。

――金関寿夫「アメリカのライト・ヴァース」(『現代詩手帖』1979・5)


抵抗と協力の二分法を脱構築するという研究て、だいたいそういうのを美的に(違うか)協力というのではないだろうかという結論に達してる気がする。こういう事態をたとえば、Verweile doch! Du bist so schön.(時間よとまれ、汝は美しい)みたいに言うことも可能であろうが、これは読解が重くなりすぎる。だから、「罪が罪であるのは時間を止めているからだ」みたいな下手すると安倍晋三になりかねない口調で言うことも可能である。しかしこれだと正論馬鹿(前日参照)みたいなので、いっそのことエンツェンスベルガーのように言うことも可能であろうか。

ぼくらはもういない

使い捨て壜
おったまげる言葉

埃にまみれて
当時のアイロンが転がり
永遠の平和を
告げている
ブルドーザーがやってくるまで


――「空き家」(飯吉光夫訳)

この詩も上の『現代詩手帖』に載っていた。この号には、ライト・ヴァースの座談会があって、たしか谷川俊太郎が宮沢賢治や藤村のパロディをするきになれないのはなぜか、みたいなことを言っていた。そして、結局ライトになるための条件としての文体に対する関心があまりないことと関係があるみたいなこと言ってた気がする。しかし、学校教育で「名作」のパロディ創作が解禁されているところをみると、まだ当時は文学的文体に対する畏怖は少なくともあったきもする。それにしても、ライト・ヴァースの雰囲気は飜訳ででるもんなんだろうか。なんかこう、ライト・ヴァースというものの日本版は、大江健三郎の「セブンティーン」みたいなものであるような気もする。あのなかにはT・S・エリオットが引かれていたけれども、エリオットも猫に関していかにもライトな作品があったようである。

ライト・ヴァースを吉本隆明に対する反抗みたいなかんじで定義すればよいのではなかろうか。花田清輝なんかにも増して大江のやってることは実際はそういう意味合いがある。しかし、通常の感覚だと、谷川俊太郎の『落首九十九』みたいなものがライトなかんじがするであるが、谷川が自覚しているようにこれは、違うのである。むしろ、枕草子に近い。そしてライトノベルもそれに近い。ライトなのではない、フットワークはむしろ重いからだ。軽さは、批評が見えない程度に振られているところにある。


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