意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ(James, The Principles of Psychology, Vol. I. Chap. XV)。即ち意識の焦点がいつでも現在となるのである。それで、純粋経験の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる。しかし余はこの範囲は必ずしも一注意の下にかぎらぬと思う。我々は少しの思想も交えず、主客未分の状態に注意を転じて行くことができるのである。
この場合の「思想」の意味はあまり深く考えずにゆくべきなのだが、これが「注意」だと「主客未分の状態に注意を転じて行く」とダブってしまうので、上のレベルの注意として「思想」なんて言ってみるほかはないのではなかろうか。また、「意識」だと「主客未分」とニュアンスがダブってしまうのだ。西田の文章は、それこそ注目する地点を移動させながら、純粋経験という経験の範囲をなんとか特定しようと頑張る。
たとえば一生懸命に断岸を攀ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続 perceptual train といってもよい(Stout, Manual of Psychology, p.252)。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うているのであろう。これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。
断崖を攀ずる場合はしらないが、音楽の場合はなんとなく想像はつく。熟練したときに意識がどのような状態にあるか。これはとても言いがたいのだが、そこに動作に対する意識がないともあるともわからない。意識が体の動きを統御しきっているとはいえないが、意識がないわけじゃない。西田はそれを「本能」になぞらえているのでちょっとわかりにくくなっているが、動物は意識がないバカな状態なのではなく、人間に動作というものはこういうものだと教えている側面だってあるのだ、ということである。我々の動作の経験は本来は動物の姿のような「純粋経験」とでも言うほかはないのであった。だから
純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。
という次第だ。
もし猿に人間ほどの知力と言語とがあったならば、猿は必ず自己の行為の規範とやらを研究し、団体意志に操られて本能的に働いていることは自分らには気が付かぬから、自分らの行為の原因目的がわからず、ただなんとなく心の奥にかかる行為を命ずる或る物が隠れているかのごとくに感じて、あるいは厳粛命令(Kategorischer Imperativ)に従えばよいとか、あるいは至善(Summum bonum)に向こうて進めばよいとか種々雑多の空論を考え出すことであろう。
――丘浅次郎「動物界における善と悪」
これは明治35年の文章で、西田のものより前なのである。こんな具合で、「愚民」どもを動物レベルの反応物体として扱う視点は広まりつつあったのだと思う。倫理も習慣も動物を訓練するように注入すればよいと人々が思うようになった。科学の専制によって経験の世界を無化しようとしていたのである。西田は経験を意識のなかの問題として保存しようとしていたに違いない。
ウイルスによるパニックは収まる気配がない。人間のウイルスの制圧への科学的試みはこれからも続くし不可避なのだが、すべての成功というのは不可能なことだ。極言すれば、人間が科学の子というより経験の子である限り、安全による経験の死はほぼ人間の終わりを意味する。科学は常に一部しか問題を解決しない。それは「失敗」として表象される。そしてその科学の失敗を何か闘いのポーズをとることで乗り越えようとしているのが、総力戦とか緊急事態宣言とかなのである。教育の分野も教育科学の失敗が結局は政治の教育への介入を許したのだと思うが、この何十年間、ずっとこの繰り返しで、――今回も同じである。