あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣などもただ芥子の香にしみかへりたる、あやしさに、御ゆする参り、御衣着替へなどしたまひて試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだにうとましう思さるるに、まして人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変わりもまさりゆく。
御息所が自分の身と心を疑う有名な場面だが、それは、葵上の安産の知らせを聞いたあとのことであった。世界の変調を自分の身のものと思う。で、自分の身から、怨霊退治の芥子の実の匂いがするといって「心ひとつに思し嘆」き、心の変化をきたしてゆく彼女である。ここの「心ひとつに思し嘆く」というのが、よいと思う。それは「我にもあらぬ御心地」という状態を経験しているから重大なのである。心を一つにしようとするのは、もう彼女には普通のことではない。いつ自分でなくなるかもしれないからだ。
われわれも確かに、予測できない自らの急激な変化を怖れるあまり、徐々に狂うことがあり得ると思うのである。
お勢の事は思出したばかりで心にも止めず忘れるともなく忘れていたが、今突然可愛らしい眼と眼を看合わせ、しおらしい口元で嫣然笑われて見ると……淡雪の日の眼に逢ッて解けるが如く、胸の鬱結も解けてムシャクシャも消え消えになり、今までの我を怪しむばかり、心の変動、心底に沈んでいた嬉しみ有難みが思い懸けなくもニッコリ顔へ浮み出し懸ッた……が、グッと飲込んでしまい、心では笑いながら顔ではフテテ膳に向ッた。
「浮雲」みたいな心の変動は、かえって「心では笑いながら顔ではフテテ」といったことになりがちだ。心が大したことでない場合、顔もやっぱり大したことにならないのであった。心は軽いほど浮かびだす。だいたい、文三はお勢の浮薄さに抵抗力が全くない。御息所はひとりでに身より外側に心が浮かびだしてしまうレベルの人なので、顔に影響しないどころか、源氏の軽薄さにも影響されない。心ひとつに思し嘆くだけであった。